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姉と弟  作者: 深江 碧
十四章 悪夢
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悪夢8

 ナイフを振り下ろす元メイドを前に、姉は恐れも怯みもしなかった。

 たとえどんな目に遭おうと、どんなに痛めつけられようと、死の最後の瞬間まで毅然とした態度を崩さないでいよう。

 たとえここで命を失ったとしても、誰かのせいにしたり自分の運命を呪ったりしない。

 どんな目に遭おうとも後悔はしない。

 最後の最後まで凛とした態度を崩さないでいよう。

 姉はそう心に決めていた。

 そうは思うものの、まったく思い残すことが無い訳では無い。後悔がない訳では無い。

 たとえ自分は良くても、特に今まで姉を助け、逃げるのに手を貸してくれた人々のことを思うと心苦しい。

 彼らは姉が無事に逃げのび、生きることを心から願ってくれた。

 その人々にとっては、姉が生き残ることが何よりも喜ばしいことだ。

 彼らの期待を裏切るかと思うと、姉は強い罪悪感に襲われる。謝罪の気持ちしか沸いてこない。

 その中で最も世話になったのが弟と、今こうして屋敷で面倒を見てくれている従兄弟だろう。

 彼ら二人の存在が無ければ、姉の命はとっくに無くなっていた。

 こうして生き残ることさえ出来なかった。

(ごめんなさい、デニス)

 姉の見えないまぶたの裏に弟の面影がはっきりと浮かんでくる。

 屋敷に引き取られてから、最初は笑わなかった弟。

 口下手で感情表現が苦手な弟の世話をあれこれと焼いたせいで、迷惑に思われていたかもしれない。

 果たして一般的な姉らしい態度が取れただろうか。

 ごく普通の家庭のように、兄弟仲の良い姉でいることが出来ただろうか。

 こんな事故に巻き込まれていなければ、あの時両親と共に姉が殺されていれば、弟の人生もまた違ったものになっただろうに。

 もしかしたら普段から気に入られている叔父に引き取られて、彼の息子として第二の人生を歩んでいたかもしれない。

 弟にとっては、そちらの方が良かったかもしれない。

 今更弟に問い掛けることは出来ない。答えを聞くことも出来ない。

(ごめんなさい、アレクセイ兄さま)

 目の見えない姉の中で、従兄弟である次男の面影は薄い。

 申し訳ないことにあまりはっきりと顔立ちが思い出せない。

 次男とは社交界で会った時の華やかで軽い印象しかない。

 姉自身もこんな目に遭うまでは、社交界で顔を合わせる以外は次男とはほとんど接点が無かった。

 付きまとわれて迷惑に思っていた以外、特に何の感情も抱いていなかった。苦手意識さえ持っていた。

 思い返してみると、姉は次男のことを何も知らない。

 今まで知ろうとさえしなかった。

 こんな事態に巻き込まれていなければ、一生次男を軽薄な人物であると思い込んでいただろう。

 次男に対しては、頭を下げてひたすら謝ることしか出来ない。

 彼は姉に対して好意を持って、婚約者にと望んでいるようだが、姉自身は彼のことを何も知らない。

 どうすればいいのか、まるでわからない。

 もしも両親が生きていて、せめてもっと早く彼について知る機会があれば、あるいは婚約の返事をこんなに悩まなくて済んだかもしれない。

(わたしは、まだ何も知らない。どうして両親が殺されなくてはならなかったのか。こんな事件を起こした叔父さんの真意さえ知らないのに)

 姉は元メイドがナイフを振り下ろす数瞬の間に、様々なことが走馬灯となって頭をよぎるのを感じる。

(伯母様は、わたしが死んだと知ったら、どんなにか悲しむかしら)

 小さい頃から何かと姉の世話を焼いてくれ、可愛がってくれた伯母。

 兄弟のいない姉に、弟を養子にするよう紹介してくれた伯母。

 弟にとっては怖い存在だったようだが、姉にとっては優しげな伯母の顔しか思い出せない。

 伯母は父親のことは嫌っていたようだったが、実の妹である母親とその娘である姉のことは誰よりも大切に思ってくれた。かけがえの無い存在として愛してくれた。

 こんな事故に巻き込まれてしまったと知った今でも、隣国にいる伯母は姉の身を案じているだろう。無事を祈っていることだろう。

 そんな伯母の強い愛情と生きて欲しいと言う願いを思うと、姉はとても心苦しくなる。

 こんなところで死にたくないと強く思う。

(ごめんなさい、伯母様)

 姉は心の中で謝ることしか出来ない。

 元メイドの手によって、姉の命は今ここで絶たれようとしている。

(ごめんなさい、みんな。折角逃がしてくれたのに、本当にごめんなさい)

 姉は心の中で今までお世話になった人達に謝る。

 もしも姉がこうして元メイドの手に掛かって死んだと知ったら、彼らはどう思うだろう。

 弟は怒り出すかもしれない。

 次男は悲しむかもしれない。

 伯母は泣き叫ぶかもしれない。

 しかしそれは姉が命を落としてからの出来事だろう。

 死んだ姉にとってはあずかり知らない出来事だろう。

 姉はこうして誰にも知られずに、誰かに看取られることなく命を絶たれようとしている。

 その後どうなるかは、姉自身には知ることは出来ない。

 あくまで想像することしか出来ない。

 姉の見えないまぶたの向こうには、優しく微笑む亡くなった両親の面影が浮かんでくる。

(ごめんなさい、父さん。ごめんなさい、母さん。本当にごめんなさい)

 姉はお世話になった人々や、今は亡くなった両親の顔を思い出す。

 優しく、時に厳しく育ててくれた父母。姉は父母の死に目にも、葬儀にも立ち会っていない。未だに亡くなったと言う実感が沸かない。

 そして今は隣国にいる伯母も、きっと姉の身を案じているのだろう。

 弟も、次男も姉のことを大切に思ってくれているだろう。

 弟が今はどこでどうしているのか姉には知る術がない。しかしきっとどこかで無事でいて、姉のことを想っていてくれているだろう。

 白蛇に弟が元気でいることを教えてもらった今、姉には思い残すことは無い。

(みんな、ごめんなさい。そして今まで本当にありがとうございます)

 お世話になった人々のことを思うと、姉の胸には熱い思いが込み上げ目頭が熱くなる。

 皆の顔がほんの一瞬姉の脳裏をよぎる。

 元メイドがナイフを振り下ろす時間がとても長く感じる。

 姉は扉を背にして立ち尽くしている。

 どうしてこの元メイドが姉に対して殺したいほど憎んでいるのか。

 それは姉自身には理解できない心情だ。

 恐らくは次男に対する恋しさのあまりの嫉妬だと思われるが、姉にはあまり理解できない気持ちだった。

 目の見えない姉には元メイドの振り下ろすナイフの軌跡は見えない。

 風切り音が微かに聞こえるだけだ。

 元メイドの怒りや狂気などを身を持って感じるだけだ。

 目が見えない分、人よりも感覚は鋭くなっているように思う。

 たとえ目が見えなくても、姉にも出来ることはまだ残っているように感じる。

 姉に出来ることと言えば寸前のところでナイフを避けることだけだ。

 しかしどのタイミングで避ければいいのか、目に見えない姉には感覚で予想することしか出来ない。

 その時、背後でかちりと何か金属のこすれる音が聞こえる。

 それは前から聞こえていたようにも思われる物音で、元メイドとのやり取りで、姉にはほとんど気に掛ける余裕がなかった微かな音だった。

 どうやらその物音は、姉の背後の扉の向こう側から聞こえてくるようだ。

 人々の声にも似た音、ざわめきが聞こえてくる。

 すると姉の背後にある扉を通して、懐かしい男性の声が聞こえてくる。

「オリガ?」

 それは聞き間違えようのない声だった。

 姉は驚きに体を震わせ、ナイフを振り下ろしていた元メイドの動きが止まる。

「アレクセイ様?」

 元メイドは驚いたような声で叫ぶ。

 ナイフを振り下ろす手を引っ込め、扉の向こうを凝視している。

 どんどんと扉を叩く音がして、扉の取っ手にある鍵がかちりと動く。

「オリガ、物音が聞こえたようだけど、何かあったのかい? 起きているのかい?」

 次男の声はやや緊張した響きを含んでいる。

 かちりと扉の取っ手が回され、扉が軋んだ音を立てる。

「兄さま」

 姉はかすかに唇を動かす。

 それはあまりに小さすぎて、声にはならない。

 ゆっくりと扉が内側に開かれる。

「オリガ?」

 それは姉には聞き慣れた次男の懐かしい声だった。

 姉はふっと肩の力が抜けるのを感じる。緊張が緩むのを感じる。

 一方の元メイドは次男が姉の名前を呼ぶのが気に入らなかったらしい。

「どうしてこんな女ばかり。こんな女のどこがいいのよ!」

 手に持っていたナイフを姉の方に勢いよく振り下ろす。

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