悪夢5
姉は元メイドを前に恐怖で体がすくんで動けなかった。
震えていることしか出来ない。
元メイドは気持ちの悪いほどの満面の姉を見下ろしている。
「久りぶりね~、オリガさま。あたしのこと覚えてる?」
大振りのナイフを構え、元メイドは嗤っている。
まるで弱いものをいたぶるような残酷な笑みを浮かべている。
「あ、あなたは」
姉はかろうじて元メイドを見上げ声を絞り出す。
「バレンチナさん、ですか?」
姉が元メイドの名前を呼ぶと、元メイドの表情が急変する。
「軽々しくあたしの名前を呼ぶな。この雌豚が!」
姉が驚く間もなく、元メイドは外から来た靴のままで姉の腹を強く蹴る。
「ぐっ」
姉は痛みに耐えかねて、お腹を押さえてうずくまる。
「誰のせいでこうなったと思ってるのよ。すべてあんたのせいでしょ? あんたみたいなクソ女がいるからあたしはこんな目に遭ってるのよ。そこんとこわかってる? 全部あんたのせいなのよ。あんたがいるからあたしはこんな不幸な目に遭ってるのよ。あんたがいなければアレクセイ様はあたしを愛して下さったのよ?」
元メイドはうずくまった姉に追い打ちのように二発三発と雪で汚れた革靴で体を蹴る。
姉はうずくまりながら体をかばい痛みに耐えている。
元メイドはそんな姉を怒りのこもった目で見下している。
「あんたのせいよ。あんたがいたからこんな目に遭ってるのよ。あんたがいなければあたしはアレクセイ様と幸せになれたのよ!」
姉の体をひたすら蹴っていた元メイドは、興奮のためにはあはあと肩で息をしている。
「まあいいわ。ここであんたいなくなれば、あたしはこれ以上不幸な目に遭わなくてすむのよ。あんたが死ねば、あたしはアレクセイ様と幸せになれるの」
元メイドは姉の長い黒髪をつかむ。
髪をつかんで姉の頭を引っ張り上げる。
「うぅ」
姉は小さく悲鳴を上げたが、元メイドは気にもしないようだった。
元メイドは姉の苦しげ表情を見て目を輝かせる。
「あぁ、そうね。あんたのきれいな顔を二目と見れない顔にしてあげてもいいわよね。そうすればアレクセイ様もあたしの方がずっときれいなことをわかって下さるわ。ねえ、そう思わない?」
元メイドはさも素晴らしい提案を思い付いたとばかりに、姉に同意を求める。
長い黒髪をつかまれている姉は何も答えない。
元メイドは楽しげに話し続ける。
「まずはどうしてあげるのがいいのかしら。顔に大きな傷をつけてあげようかしら。髪を全部剃り落としてあげようかしら。鼻を削ぎ落してあげようかしら。耳を切り落とした方がいいかしら。それとも目をくりぬくとか? 手足を切り落として本当に雌豚にしてあげるのも手よね」
元メイドは笑顔で恐ろしいことを口にする。
姉の目には彼女は最早善悪の区別もついていないように見えた。
それどころか狂人のようにも見える。
どうしてこうなってしまったのだろう?
何が彼女を変えたのだろうか。
どうして彼女はこんな行動を取るのだろう?
嫉妬が彼女を変えてしまったのだろうか。
まだ姉を地下室に閉じ込めた時には、もう少し普通の性格の人間に見えた。
どうしてこうなってしまったのか姉にはさっぱりわからない。
(わたしはここで死ぬの?)
元メイドの行動は完全に常軌を逸している。
下手をすれば今ここで殺されかねない。
死、という単語が姉の心の中に蘇ってくる。
急に気持ちが萎えて空寒くなってくる。
心の中にぽっかりと底知れない暗い穴が開いてしまったかのようだ。
自分はまさに運命の分岐点にいるという感覚を覚える。
(わたしは、どうすればいいの?)
姉は自分自身に問い掛ける。
自分がどうすればいいか必死に考える。
①元メイドに命乞いをする
②毅然とした態度で接する
③悲鳴を上げて屋敷の者に助けを求める
(ううん、違う)
姉は暗い考えを振り払う。
こんな選択に頼っていた自分を恥じる。
(わたしは、わたしの選択肢は、もう決まっているはずよ。何が何でも生き残るの。こんなところで死ぬ訳にはいかない)
姉の弱った心に生きる強い気持ちが沸いてくる。
手の中に金属の固い感触を感じる。
両手で弟からもらったペンダントを握りしめていたことを思い出す。
姉の心に強固な意志が蘇ってくる。
(そうよ、わたしはデニスに会うのよ。こんなところで死ぬ訳にはいかない)
強い気持ちと同時に今までの大変な道のりを思い出す。
こんな状況は今までだって何度となくあったことだ。
その度に姉は困難な状況を切り抜けてきた。
その自信は姉の気持ちを奮い立たせる。
「離して」
姉は首を動かし、髪をつかんでいる元メイドを見る。
「離しなさい」
姉は強い口調で叫ぶ。
絨毯の上に落ちていた枕をつかみ、元メイドに投げつける。
「わっ」
枕は元メイドの顔に当たり、驚いた様子でつかんでいた姉の髪を離す。
「あんた何すんのよ!」
元メイドは大振りのナイフで姉に切りつける。
姉はとっさに両腕で顔をかばう。
鋭い痛みが腕を駆け抜ける。
ナイフに切りつけられて着ていた寝間着の腕の部分が破れる。




