それぞれの約束12
「どうかあと三日。三日考える時間を下さい。三日後には必ずお返事致しますので」
夕食の席での弾まない会話に耐えかねて、姉は次男にそう提案した。
姉がそう言った瞬間、食堂は水を打ったように静まり返った。
先程までせわしなく動いていた使用人たちが声を潜めた。
既に使用人たちの間で次男が姉に婚約を申し込んだことは噂になっている。
夕食の間も使用人たちは忙しく立ち働きながら、姉と次男の会話を盗み聞きしていたのだろう。
静まり返った食堂で、使用人たちが固唾を飲んでことの成り行きを見守っているのがわかる。
「わかりました」
次男は淡々とした口調で答えた。表向きの態度は穏やかだった。
しかし内心ではどう考えているかわからない。
姉はそれを心苦しく思う。
「申し訳ありません」
姉には次男に頭を深く下げ謝るのが精一杯だった。
きっと内心では複雑な思いを抱いているだろう。
次男のその気持ちは容易に想像がつく。
姉が次男と同じ立場であっても、きっと婚約を申し入れた相手の反応が気になって仕方がないだろう。
ことは自分の一生を左右する伴侶を決めるかもしれない事柄なのだ。
仮に姉が婚約を受け入れたとして、たとえこの先次男と何かあって結婚しないにしても、婚約者同士だった事実は残る。
何かあって顔を合わせる度に、お互いに気まずい思いをするのはわかっている。
周囲に知れれば、事あるごとに人々の口に上り、噂されるのはわかっている。
もしかしたら次男の評判に関わるかもしれない。
次男はそれをわかった上で、姉に婚約を申し入れているだろうか。
「どうしてあなたが謝るのですか? あなたが謝る必要はありません」
次男は静かな声でそう言った。
それがますます申し訳なく聞こえて、姉は顔を伏せる。
「申し訳ありません」
姉はそう言うしかない。
婚約の申し出を受けてから、メイドの事件があってから、三日が過ぎていた。
あんな事件があり、お互いに怪我をしたこともあって、事態はうやむやになっていたこともある。
しかしお互いに怪我がだいぶ良くなって、事件を起こしたメイドの処分も決まり、状況も落ち着いてきた。
すぐにでも返事をもらいたいと思っているかもしれない次男に、もう三日待って欲しいと言うのはいくらなんでも我儘ではないか。
今までだって決して次男の婚約の申し出に対して真剣に考えていなかった訳では無い。
むしろ考えれば考えるほど返事に困ってしまう。
自分の将来の選択に迷ってしまう。
次男は優しい人だろう。
今までだって両親を亡くし、目の見えない姉のために心を砕いて来てくれた。
身よりもなく、目の不自由な姉のために何不自由ない生活が送れるように気遣ってくれた。
文句ひとつ言わず姉のために色々と動いてくれた。
これ以上、次男に何を求めるのだろう。
姉の今の立場であれば、次男の婚約の申し出にすぐにでも快諾するのが筋であるはずなのに。
それは姉も十分にわかっている。
しかし迷いが晴れないのも、また事実だった。
心のどこかに引っ掛かりを覚える。
ここですぐに返事をしたら、一生後悔してしまいそうな気がする。
「失礼致します」
姉は次男に対する気まずさから、夕食もそこそこに席を立つ。
一礼して、そのまま食堂を後にする。
(わたしは何を迷っているのだろう。目の見えないわたしに、他に選択肢は無いはずなのに)
次男から逃げるように自室に戻る。
「オリガ様、お加減が悪いのですか?」
そばには若いメイドが付き添っている。
「すぐに床の準備を致しますね。湯も沸かしますので、しばらくお待ち下さい」
そう言って、若いメイドは姉の身の回りの世話をしてくれる。
「ありがとうございます、マリアさん」
若いメイドがそうしてくれるのも、すべては次男の命令があってこそだ。
姉一人では普通に生活することもままならない。
湯に浸かり、若いメイドに助けられて着替えをした姉は、ベッドに入る。
「ではゆっくりお休み下さいませ、オリガ様」
若いメイドが暖炉の炎を小さくし、明かりを消して部屋を出て行く。
暗い部屋で一人きりになった姉は溜息を吐く。
それは白蛇が姉の部屋を訪ねて来た次の日のこと。
白蛇に次男のことを調べてもらうようにお願いして、少しは心が軽くなったと思ったはずだった。
少しでも自分に出来ることを探して動こうと思ったのだが、具体的にどう動けばいいのか姉には見当もつかなかった。
せめて期限を区切れば、姉としても少しは気持ちに整理がつくかもしれない。
そう思って、のことだった。
今までは次男のことを思い出さないようにしていたが、上手く行かなかった。
思い出せば、一緒に今までの記憶が蘇ってくる。
次男が優しくしてくれた記憶が頭をよぎる。
一度思い出せば、堰を切ったように今までの記憶が押し寄せてくる。
頬が熱を帯び、姉は恥ずかしさに顔を覆いたくなる。
次男が掛けてくれた優しい言葉も、穏やかな声も、温かな態度も、そのすべてが思い出されていたたまれなくなる。
姉はベッドの天蓋を眺めながら、柔らかなベッドの中で寝返りを打つ。
長い黒髪が寝返りを打つたびにさらさらと音を立てる。
顔が火照ってなかなか寝付けないまま、姉は無理に思考を切り替える。
(三日後までに、わたしが結論を出さないといけない。考えをまとめないといけないんだわ)
夕食の席で三日と言う期限を区切ることが出来たのは幸いだったのかもしれない。
そうでなければ婚約の返事が出来ないまま、無駄に月日だけが経ってしまっていたかもしれない。
返事をしないまま、次男をもっと待たせてしまっていたかもしれない。
もっと迷惑を掛けていたかもしれない。
静まり返った暗い部屋の中で、姉は枕の下を探り、ある物を手繰り寄せる。
それは金属でできた鎖だった。
その鎖の先にあるペンダントを引き出す。
それは昨夜、白蛇が持ってきたくれた小箱に入っていた品だ。
弟がプレゼントしてくれた百合の彫刻が施されたペンダントだ。
青い石の上に白い百合がデザインされたものらしい。
姉はそのペンダントを両手で包み込み、指でその表面をなぞる。
百合の彫刻が姉の指を通して感じられる。
ほんのりと百合の花の香りが漂ってくる。
まぶたの裏に弟の顔が浮かぶ。
(デニス)
弟の名前を心の中でつぶやく。
名前を口にすると心の中に温かい気持ちが広がっていく。
とても懐かしい気持ちになる。
(デニス、わたしは元気でいるわ。あなたは今どうしているのかしら)
この贈り物のペンダントのことは、身の回りの世話をしてくれている若いメイドにも、次男にも話していない。
姉と弟と白蛇しか知らない。
このペンダントを握りしめていると、不思議と勇気が出てくるような気がする。
(せめて、わたしはわたしに出来ることをやらないといけないわよね。デニスもきっと今頃頑張っているもの。わたしはわたしに出来ることを探さないといけない。わたしの道を探さないといけない)
不思議と気持ちが奮い立つ。
姉はペンダントに勇気づけられるような気がして、再び枕の下に隠す。
昼間の間は服の下に隠して身に付け、夜の間は枕の下に隠している。
白蛇にペンダントをもらってから一日経ったが、今のところはペンダントのことは、誰にも気づかれていないようだ。
姉はそのことに安堵する。
大事なお守りのようなこのペンダントのことだけは、次男にもメイドにも秘密にしておこうと考える。
布団を手繰り寄せ、穏やかな気持ちでベッドにもぐりこむ。
挫いた足は、医者の手当てのおかげで随分と良くなってきている。
痛みが引いて来て、大分動くようになってきている。
人の助けが無くても歩けるようになってきている。
一人でも少しずつ出歩けるようになってきている。
(目の見えないわたしでも、出来るだけのことは自分で出来るようになってきたわ。あなたはどうしているのかしら?)
姉は弟のことに思いを巡らせながら、長い息を吐き出す。
(おやすみなさい、デニス)
皆にとって明日が良い日であるように願いつつ、姉は穏やかな気持ちで眠りに落ちた。




