それぞれの約束9
いつも通り次男との夕食を終えて、自室に一人になった姉は母に教えられた子守唄を口ずさんでいた。
あれから三日が経つが、まともに次男の顔を見ることが出来ない。まともに言葉を交わすことが出来ない。
今回のことで次男に迷惑を掛けてしまった心苦しさもあったが、姉自身この先どうすればいいのかわからない。
姉は心の中のもやもやの結論も出ないまま、ぼんやりとベッドに横になっている。
体は疲れているはずなのに、気持ちは妙に高ぶっている。
何度も寝返りを繰り返している。
次男は姉に、もし婚約を受け入れてくれるならば浮気はしないと誓ってくれたが、それをどこまで信じればいいのかわからない。
社交界において、舌先三寸で女性を騙す男性は数多くいる。
伴侶がありながら浮気に走る男女の噂を山ほど耳にしたことがある。
人の心は簡単に底が見通せないものだ。
そのため社交界においては姉も財閥の総帥令嬢として、必要以上に人々を警戒して来た。
かつて婚約をしていた男性でさえ、姉のことを見下し、蔑ろにしたではないか。
次男も同じことをしないとも限らない。
姉を捨て、他の女性の元に走らないとも限らない。
次男を全面的に信頼している若いメイドの前で、そのことを口にするのは憚られたため、相談することも出来ない。
姉はそっと溜息を吐く。
(わたし、自分のことばかり考えている。自分勝手なわたし。あの人の気持ちも考えないで、自分のことで迷っているなんて)
恋であれば一瞬で落ちることが出来るのだろう。
しかしその後、夫婦として愛情を長続きさせることがどれほど難しいか。
社交界の不倫の噂話を聞いていると、姉自身嫌気感が増してくる。
人間不信に陥ってしまう。
姉自身、結婚した相手がそういった噂の種にならないとも限らない。
自分が道を踏み外した恋に走らないとも限らない。
いつ、どんなことが起こるとも限らないのが人生だ。
一寸先は闇と言うのは、まさに姉が遭遇した交通事故のことを言うのだろう。
本来は次男の怪我を心配するべきなのだろうが、ベッドで横になってから自分のこの先のことばかり考えてしまう。
疲れているはずなのに眠ることも出来ず、夜が更けて行く。
「オリガ様」
不意に部屋の扉を叩く者がいた。
こんな夜中に何の用だろう。
「誰ですか?」
姉はベッドから起き上がり、微かな声を上げる。
「オリガ様ですね? 入ってもよろしいでしょうか」
それは若い女性の声のようだ。
今までに聞いたことの無い声だ。
使用人の誰かだろうか。
「こんな夜中に、わたしに何の御用でしょうか」
姉は訝しみながら、声の主に問い掛ける。
「むしろこんな夜中だからです、オリガ様。これなら誰にも聞き咎められずにゆっくり二人で話しが出来ます」
こんな夜中に二人きりで話したいことなど、どんなことだろう。
姉はそばにあった杖を引き寄せ、警戒心を抱く。
「大丈夫です。あたしはオリガ様の味方です。ボスの、オリガ様の伯母様の命令で、ここに来ました」
「伯母様の?」
女性の思いも寄らない言葉に、姉は息を飲む。
「その話、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか」
姉は声のした方に身を乗り出す。
ベッドから降りようと、布団をたくし上げる。
「そのままで結構ですわ、オリガ様。オリガ様は目が見えないのでしょう。事情はボスから聞いています。少し待って下さい。今そちらに行きます」
姉の部屋の窓や扉は夜中は鍵が掛かっている。
目の見えない姉の防犯上のこともあり、メイドが退室する時に鍵を掛けているのだ。
もしも夜中に目覚めて用を足すときは、呼び鈴でメイドを起こさなければならない。
幸い隣の部屋にメイドが詰めているので問題はないが、いつも姉は彼らを起こすのを憚られて遠慮してしまう。
そのため夜中は姉一人では部屋の外に出ることが出来ない。
扉の方で微かな物音がして、扉の開く音が聞こえる。
足音もさせずに、部屋の中に入ってくる気配がする。
「あなたは誰ですか? どうして伯母様のことを知っているのですか?」
姉が闇に向かって尋ねると、すぐそばから声が返ってくる。
「あたしのことは白蛇とお呼び下さい、オリガ様。あなたの伯母様の命令で、隣国までお連れするように言われています」
姉は相手の言葉を聞いて躊躇う。
それは弟も同じことを言っていた。
(でも、今のわたしはアレクセイ兄さまの庇護の下にいる。もし伯母様の元に行くにしても、果たしてそれが可能なのかしら?)
次男は姉を伯母の元に行かせたくないような素振りだった。
姉はその胸中を素直に吐露する。
「わたしを、伯母様のところに連れて行って下さるのですか? でもそれには、アレクセイ兄さまの許可が必要だと思います。わたしは今、アレクセイ兄さまのお屋敷でお世話になっているのですから、勝手に外出は出来ません。それにアレクセイ兄さまはわたしに伯母様の元には行って欲しく無いような様子でした」
姉は次男の前で伯母の名前を出した時のことを思い出す。
伯母の元へ行くと姉が言い張ると、次男は明らかに動揺していた。
姉が伯母の元へ行くと、ここからいなくなると、次男にとって都合の悪いことでもあるのだろうか。
白蛇は姉のすぐそばで足を止める。
はっきりとした強い口調で答える。
「あの男の意志は関係ありません。大切なのはオリガ様の意志です。あの男の許可など必要ありません」
その白蛇の強い口調に姉の方が面食らう。
「で、でも、それは」




