それぞれの約束7
「マリアあんた、まだ辞めさせられたバレンチナのこと気にしてるの?」
同じ使用人仲間に声を掛けられ、若いメイドはそちらを振り返る。
夕食後、姉を部屋に送り届けた若いメイドは暗い顔でテーブルの前に座っている。
使用人たちの部屋に下がった若いメイドは、たった今ようやく遅い夕食にあり着いたところだ。
姉のそばに着いて、お世話をしたにも関わらず、メイドは食事にほとんど手を付けていない。
メイドはうろんな目で女使用人を見る。
「何々、マリアがまた深刻に考えてるって?」
別の女使用人がマリアの隣に座る。
「そうなのよ。マリアったら、またどうでもいいことで悩んでるのよ」
先程の女使用人がメイドのそばに立つ。
座っている使用人が相づちを打つ。
「うわ、それはまずいわ。マリアったら、バレンチナが辞めたのは自分のせいだ、とか思い込んでるんじゃない?」
「そうそう。それで罪悪感とか感じちゃったりして」
「勝手に責任を感じて、落ち込んで」
「真剣に悩んでるって訳ね」
若いメイドが一言も発しないうちに、女使用人仲間の間で勝手に話が進んでいる。
メイドは溜息を吐く。
「別に、そう言う訳じゃないわ」
器に盛られたトマトスープをスプーンでひと匙すくい、口に運ぶ。
隣に座る女使用人が尋ねる。
「じゃあ、どう言う訳なの?」
そばに立つ女使用人も尋ねる。
「どうしてあんたは落ち込んでるの?」
メイドはスープをもぐもぐと咀嚼してごくりと飲み込む。
「別に落ち込んでる訳じゃないの。バレンチナのこともあって色々と混乱はしてるけど、あの一件以来、オリガ様の元気が無いみたいで。それが心配なの」
若いメイドはもうひと匙スープをすくおうとして、手を止める。
赤いトマトスープの満たされた器を覗き込む。
「あれから三日が経って、オリガ様はいつも通り明るく振る舞っておられるのだけど、アレクセイ様の話題になると暗い表情をされるの。アレクセイ様がお部屋を訪ねて来ても、落ち着かない様子で会話もあまり弾まないみたい」
湯気の立つトマトスープの表面には、若いメイドの暗い顔が映っている。
そばに立つ女使用人は腰に手を当てる。
「そりゃあ、オリガ様も婚約を申し込まれたばかりだしねえ。色々と思うところがあるのよ」
隣に座る女使用人はにやにやと笑う。
「アレクセイ様とオリガ様が廊下で抱き合ってキスしてたって言うからねえ。バレンチナじゃなくても嫉妬で怒り狂うんじゃない?」
隣に座る女使用人は笑いながら横目でメイドを見る。
若いメイドはむきになって言い返す。
「私は嫉妬なんてしません。ましてや怒り狂ったりもしません」
「ホントかしら?」
「さあね、マリアのことだから」
隣でこそこそと声があがったが、メイドは聞こえないふりをする。
「とにかく、私が落ち込んでるのは辞めさせられたバレンチナのことじゃなくて、オリガ様が心配だからなの。まあ、確かに、バレンチナのことはショックだけど、まさかオリガ様に嫉妬して殴り掛かって、アレクセイ様に怪我を負わせるなんて、今でも信じられないけれど」
若いメイドは声を落とす。視線を泳がせる。
落ち込んだ様子のメイドを見て、女使用人たちは黙り込む。
メイドは話し続ける。
「私、バレンチナがあんなことをするなんて思わなかった。あんな性格だなんて知らなかった。今更ながら、私はバレンチナのことを何も知らないんだなあ、と思って。ずっと一緒に働いてきたはずなのに、バレンチナがアレクセイ様のことを好きだとは知らなくて、まさかあんな行動を起こすなんて、オリガ様を害そうとするなんて思わなかったの」
話しながらメイドの両目に涙がにじむ。
「マリア、あなた」
隣に座っていた女使用人がメイドの肩に手を置く。そばに立っている女使用人もメイドの頭を撫でる。
「バレンチナのことを知らなかったのは、あたし達も同じよ」
「あの子が何を考えているのか、あたし達もまったく知らなかったもの」
「驚いているのはあたし達も同じよ」
メイドは潤んだ目で女使用人たちを見る。
「二人とも、そうなの?」
二人は大きくうなずく。メイドを慰めるように寄り添う。
「よしよしマリア、大丈夫よ」
「あたし達の腕の中で泣いてもいいのよ?」
二人にそれぞれに抱き着かれて、メイドは泣き笑いのような表情を浮かべる。
「これくらいじゃ、泣かないわよ」
強がりを言って見せるが、すぐに暗い表情が舞い戻って来る。
「バレンチナのことはもういいの。あの子はあの子で別のお屋敷で新しく働くと思うから。アレクセイ様が紹介状を渡しているのを見たから。それよりも、今はオリガ様が落ち込んでいらっしゃることが心配で。また一人で悩んでいるんじゃないかと思って」
メイドは目を伏せる。
女使用人たちもお互いに顔を見合わせている。
「それは、まあ。オリガ様もバレンチナのことがあって、色々と悩むこともあるのよ」
「ただでさえ真面目そうな方だし。今はそっとして置くのが一番だと思うわよ」
「そうそう。アレクセイ様とオリガ様の関係に、下手に口を出さない方が身のためよ」
「マリアも真面目すぎるのよ。もう少し仕事だと思って割り切ってもいいんじゃないの?」
女使用人たちが口々に慰めの言葉をかけたが、メイドの表情は晴れない。
メイドはかろうじて小さくうなずく。
「そうよね、アレクセイ様はオリガ様に婚約を申し込んだんだもの。オリガ様はそれで悩んでいらっしゃるんだわ。今はそっとしておいて、下手に私が口出ししない方がいいんだわ」
わずかに声が震えている。
メイドの頬を一筋の涙が伝う。
持っていたスプーンを取り落とし、甲高い音を立てる。
メイドは両手で顔を覆う。
「私、オリガ様に嫉妬したバレンチナの気持ちが少しはわかるの。私はオリガ様もアレクセイ様も大好きなのに、アレクセイ様が幸せになるのを誰よりも願っているはずなのに、胸の奥から嫉妬の気持ちが沸き上がってきて仕方が無いの。胸が苦しくて仕方が無いの。この気持ちはどうすればいいの? どうすれば胸の苦しさが収まるの?」
顔を覆ったメイドの指の間から、ぽろぽろと涙がこぼれる。しゃくり上げる声が聞こえる。
近くにいた女使用人たちはメイドのそばに寄り添う。頭を撫でたり、肩を叩いたりして慰めている。
「マリアも辛かったわね」
「あんたは誰よりもアレクセイ様のことが大好きだったものね」
泣いているメイドは両手で顔を覆い、嗚咽の声を上げてテーブルに突っ伏する。
「私もアレクセイ様のことが好きだった。でもそれが叶わないことぐらいわかっているはずなのに、オリガ様の方がふさわしいことはわかっているはずなのに」
女使用人たちは黙ってメイドの頭を撫でていた。泣きじゃくるメイドのそばにずっとついて慰めていた。




