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姉と弟  作者: 深江 碧
十三章 それぞれの約束
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それぞれの約束3

 若いメイドはシチューを食べる姉の言葉に胸を張る。

「そうですよねえ。うちのシェフはシチューを作らせたら右に出る者はいないほどの達人ですから。アレクセイ様もそれで屋敷の料理人に採用したほどですよ」

 まるで自分の手柄であるかのように若いメイドは得意そうに話す。

 若いメイドの明るい声を聞いていると姉は胸のつかえが取れて、元気が出てくるようだった。

 自然に笑みがこぼれる。

「そうなのですか。マリアさんの仰るように、そのシェフの方はとても有能な方なのですね。このシチューを食べているとわたしもとても幸せな気持ちになってきます。このシチューは本当においしいです」

 ふとシチューを食べていた姉の目から涙がぽろりとこぼれる。

 両親がいた頃に食卓を囲んで食べた、母のシチューの味を思い出す。

 あの頃は、家族三人貧しくて身を寄せ合って暮らしていた。

 お金は無かったが、慎ましやかに生活し、質素な食事を家族みんなで一緒に取った。

 あの頃はそれが何よりのごちそうだった。

 財閥に戻ってからは、家族一緒に食事を取ることの方が珍しくなった。

 財閥総帥である父親はいつも忙しく、姉は母親と夕食を取ることが多かった。

 料理好きの母親は、シェフに頼らずに、家族のために自分で食事を用意した。

 料理の品数は少なかったが、どの料理も母親の心がこもっておいしかった。

 家族みんなで集まって食べる食事が、何よりのごちそうだった。

 もう二度と戻って来ないあの風景が、今はとても愛おしく思い出される。

(父さん、母さん、デニス)

 姉は懐かしさに胸が締め付けられるようだった。

 嬉しい気持ちと寂しい気持ちが波となって押し寄せてくる。

 弟は今頃どうしているだろう。

 元気でいるのだろうか。

 姉は若いメイドに見られているのを意識し、シチューの皿を置いて、慌ててこぼれた涙を指でぬぐう。

「ご、ごめんなさい。少し感傷的になってしまって」

「オリガ様」

 そばで見ていた若いメイドは、姉の隣にそっと腰かける。

 その肩に手を置く。

「お辛かったでしょうね、オリガ様。アレクセイ様からお話は伺っています。そば付きの私が不甲斐ないばかりに、目の見えないオリガ様を危険な目に遭わせてしまいました。申し訳ありません」

「そ、そんな、マリアさんは何も悪くありません。あれはどうしようも無かったことで」

 あの時のことは、何も疑わずについて行った姉にも責任がある。

 多少の疑問は感じたものの、まさかワインセラーに閉じ込められるとは、その時は思ってもいなかった。

 姉は慌てて首を横に振る。

「と、とにかく、マリアさんは何も悪くありません」

 声を大にして叫ぶ。

 若いメイドはわずかに笑みを浮かべる。

「ありがとうございます、オリガ様。使用人である私のことを気遣って下さるのですね」

 若いメイドはくすくすと声を出して笑う。

 姉もつられて少しだけ笑顔になる。

 若いメイドは姉と向かい合う。

 真剣な口調で話す。

「私はアレクセイ様の想い人がオリガ様で、本当に良かったと思います。オリガ様ならアレクセイ様のお相手として相応しいと私は思うんです」

「え?」

 姉は言葉を失う。

 突然次男の名前を出され、姉は動揺する。

 若いメイドは真っ直ぐに姉を見つめている。

「私はずっとアレクセイ様のお傍に仕えて来ました。以前よりアレクセイ様は様々な女性とお付き合いをされる機会があったのですが、今回のようにアレクセイ様が楽しげにされているのを、私は今まで見たことがありません。いつも夕食の席で、オリガ様とアレクセイ様が楽しげに話されているのを見て、私の方まで嬉しくなります。その様子を見て、私はやはりアレクセイ様にはオリガ様が最も相応しい相手であると実感致しました」

 姉にとっては迷惑な行為が、若いメイドにとっては楽しげな光景に映ったのだろう。

「で、でも、わたしは」

 姉は何か言おうとしたが駄目だった。

 若いメイドの言葉に遮られる。

「オリガ様はアレクセイ様にとても愛されているのだと思います。オリガ様は目が見えないことを気に病んでおいでかと思いますが、アレクセイ様はそんなオリガ様を何より愛しいと思っておいでです」

 若いメイドの熱弁は、聞いている姉の方が恥ずかしくなってくるほどだった。

「で、でも、マリアさんは、アレクセイ兄さまのことが」

 言いかけた言葉を慌てて飲み込む。

 アレクセイ兄さまのことが好きではなかったのですか?

 口にしてから、言うべきでは無かったと思い、口をつぐむ。

 どう誤魔化したらいいか、考えあぐねる。

 姉は若いメイドから視線を逸らす。

「そ、その、わたしは、そこまで良い人間ではありません。マリアさんが思っているような人では無いのです。アレクセイ兄さまはきっと勘違いをしているのです。本当のわたしを知ったら、きっとがっかりなされるでしょう。幻滅されるでしょう」

 姉はうつむいている。

 あんなことがあったせいで、余計にそう思う。

 若いメイドはそんな姉の気持ちを察したのか、困ったように笑う。

「それは私も同じですよ。私だって自分に自信がある訳ではありません。確かに、まあ、オリガ様のお察しの通り、私はアレクセイ様のことが好きですけどね」

 あっけらかんと言い放つ。

 その態度は妙に晴れ晴れとしている。

「でも、アレクセイ様のことは私の命の恩人であり、同時に尊敬もしています。だから一般的な男性に対しての好きと少し違っているんです。オリガ様がアレクセイ様を好きでいるのとは、少し違うと思いますよ」

「わ、わたしは別に、兄さまのことが好きという訳では」

 姉は次の言葉が続かない。

 顔を赤くして黙り込んでしまう。

 次男に対する気持ちは、まだ姉自身にもよくわからない。

 どう接すればいいのか、次男の気持ちにどう応えればいいのか気持ちが定まっていない。

「お可愛らしい、オリガ様。大丈夫ですよ。アレクセイ様はお優しい方です。決して答えを急くような方ではありません。ゆっくり考えてから答えを出せばいいのです」

 若いメイドはそんな姉を見てくすくすと笑っている。

 確かに若いメイドは姉より一つ二つ年上だが、子ども扱いされたことに姉は不満を覚える。

「わ、わたしだって、真剣に考えています」

 姉はぷうっと赤い頬を膨らませる。

 そんな態度は家族や友達の前でしか見せたことが無い。

 息の詰まるような社交界では、常に気持ちを張り詰めて過ごしていた。

 本当に心の許せる相手は少なく、いつも緊張を強いられていた。

 それに比べれば、次男や若いメイドの細やかな気遣いは一緒にいて心地よく、姉の心を解きほぐしていた。

 若いメイドは穏やかに笑っている。

「アレクセイ様と一緒にいてお嫌では無いのでしょう?」

 それも姉にはすぐに答えが出なかった。

「わかりません」

 姉はゆっくりと首を横に振る。

 若いメイドは穏やかな声で話す。

「難しく考える必要は無いのです。アレクセイ様と一緒にいて、楽しいか思うか、嫌と思うか。私はオリガ様のお気持ちはよくはわかりませんが、好きと言うことはそういうことでは無いかと思うのです」

 それを問われると、姉は喉の奥に言葉が詰まる。

 上手く言葉が出て来ない。

 次男とは共にいて落ち着く時もあれば、腹立つときもあることを知っている。

 どちらが本当の彼の気持ちなのか、どちらが自分の本当の気持ちなのか、図りかねている。

「でも、わたしはアレクセイ兄さまに怪我をさせてしまいました。兄さまを危険な目に遭わせてしまいました。目の見えないわたしのせいで、兄さまはわたしをかばってあんな目に」

「オリガ様」

 若いメイドの気遣う声が聞こえる。

 姉はまた暗い顔でうつむいてしまう。

 次男がメイドと抱き合っていたと聞いた時、姉の心に火がついたような強い嫉妬が沸き起こった。

 あれは次男が姉に対して婚約を申し入れた時の約束を違えたという反発心なのか、それとも姉が次男に対して好意を抱いていたために起こった嫉妬なのか。

 あの嵐のような気持ちが過ぎ去った後では、姉にも判断がつかない。

(わたしが、兄さまのそばにいたら、また危険に巻き込んでしまうかもしれない)

 次男は目の見えない姉をかばって怪我を負った。

 もしも姉の目が見えれば、姉がそばにいなければ、次男をあんな目に遭わせることは無かったかもしれない。

 メイドもあんな行動を起こさなかったかもしれない。

「わたしはアレクセイ兄さまにひどいことをしてしまいました。わたしは兄さまのそばにいる資格は無いのかもしれません。兄さまのおそばにいたら迷惑を掛けてしまうかもしれません」

 姉は話しながら溜息を吐く。

「お、オリガ様に限って、そんなことはありません。アレクセイ様もオリガ様がおそばにいて下さって、とても嬉しいと思っています」

 若いメイドが必死の様子で訴える。

 姉はゆっくりと首を横に振る。

「ありがとうございます、マリアさん。でもわたしにとっては、兄さまに怪我を負わせてしまったことが心苦しいのです。もしも当たり所が悪かったら、兄さまはもっと大怪我を負っていたかもしれません。そうなってしまっていたら、わたしは悔やんでも悔やみきれません」

「オリガ様」

 若いメイドは姉の横顔を見つめている。

 暖炉の薪のはぜる音と、窓の外の風の音だけが耳に入る。

 黙り込んでいる姉を見て、若いメイドが気を遣ったのだろう。

 ソファから立ち上がる。

「とりえずその話は置いておいて。オリガ様、シチュー以外もおいしいですから、どうぞ冷めないうちに食べて下さいね。温かいうちの食事の方が絶対においしいですから」

 若いメイドは明るい声で話す。

 テーブルの上に置いた器と食器を姉の方に近付ける。

「そ、そうですね。頂きます」

 姉は慌てて持っていたスプーンでシチューをすくう。

 まだ温かいシチューを口に運ぶ。

「今夜の夕食は、鶏肉とじゃがいものシチュー、ライ麦のパンと小麦粉の白パン、生ハムとアボガドのサラダに、デザートはティラミスですよ。これでも品数を選んで持ってきたんですよ。足りなければすぐに別の食事も持ってきますからね。たくさん食べて下さいね」

 若いメイドは明るい声で姉に話しかける。

「あ、ありがとうございます、マリアさん」

 姉はもぐもぐと口を動かしながら、若いメイドに返事をする。

 目が見えないながらも、こぼさないように慎重に食事を進めた。

 温かい部屋で夕食を取り、姉はようやく落ち着いた気持ちを取り戻すことが出来た。

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