過去そして現在29
執務室から出た次男は、メイドの後を追いかけ声を掛ける。
「今日は仕事が立て込んでいるから、食堂での夕食は無しにする。夕食は皆でわけてもらって、こちらには軽い食事を執務室に運んで来て欲しい」
次男に廊下で声を掛けられ、メイドは言われた通りに食堂の使用人たちにそれを伝える。
「折角夕食の準備をしたのに」
「腕を振るった料理が食べてもらえないなんて」
食堂にいた使用人たちのあちこちから不満の声が上がる。
「でも仕事が忙しいんじゃ仕方が無いわよね」
「そうそう。私らのお給金が出ないんじゃ困りものだもの」
「それにあたしらで夕食を分けていいって言うんだもの。こんなに豪勢な夕食、滅多に食べれるものじゃないわよ」
最初は不満を口にしていた使用人たちも、豪華な夕食を使用人たちでわけてもいいという話を聞いてまんざらでもないようだった。
それぞれ器を持って、思い思いの料理を鍋から取り分けている。
ただ一人、メイドだけは使用人の楽しげな輪から外れて、次男に頼まれた軽い食事を準備している。
「バレンチナ、あんたは食べないの?」
それを見た女性使用人たちが聞いてくる。
「私は、アレクセイ様に軽い食事を持って来るように言われたから」
メイドは小さな声で答え、黙々と十数種類用意された夕食の中から、食べやすそうな物を器に盛って取り分けている。
女性使用人はお互いに顔を見合わせる。
「そうね、何はともかくアレクセイ様の方が優先だものねえ」
「いいわ、あたしたちがバレンチナの夕食の分、取っといたげる。だから安心して行ってらっしゃいね」
メイドは小さくうなずいて、器に食事を盛り付ける。
腹の底では別のことを考えている。
(私はあなたたちとは違う。アレクセイ様に信頼されているのよ。アレクセイ様は食事を持って来るように、私に直に頼まれたのだもの。私を心から信頼している証拠よ)
少しも表情には出さず、メイドは夕食に浮かれている使用人たちを冷ややかに見ている。
(それに比べて、夕食のことにこだわるあんたたちなんて、死ぬまで使用人のままよね。身分が貧しいと、品性まで貧しくなると言うものね。見苦しくてとても一緒にいられないわ)
心の中でほくそ笑む。
(でも、もうすぐよ。もうすぐアレクセイ様の愛が私のものになる。私はアレクセイ様に愛されて、ずっと幸せに暮らすの。貧しさから解放されて、豊かな生活を送ることになるの)
さっさと準備を整えたメイドは、食後の熱い紅茶を用意して食堂から出て行く。
各々賑やかに夕食を食べる使用人たちに侮蔑の目を向けて、その部屋を後にした。
紅茶やシチューやパン、サラダなどの料理を用意して次男の執務室の前にやって来る。
メイドがノックすると、中から次男の声が返ってくる。
「どうぞ」
「失礼致します」
メイドは銀のトレイを持って、扉を開ける。
次男の執務室へと足を踏み入れる。
「あぁ、食事はそこのソファのそばのテーブルの上に置いておいてくれないか」
次男は机のそばで書類の束を持って立っていた。
机の上に何冊か本を並べ、書類と照らし合わせているところだった。
「こちらでよろしいでしょうか?」
メイドは銀のトレイを持って、テーブルの上に置く。
銀のトレイには食後の紅茶を始め、夕食に出す予定だった鶏肉とじゃがいものシチュー、ライ麦のパンと小麦粉の白パン、生ハムとアボガドのサラダに、デザートはティラミスがついている。
これでも軽く、と言われ、夕食に出す料理から食べやすい数種類を選んできたのだ。
厨房の料理長も次男が体調が悪くて食欲がないのではと心配していたが、仕事が忙しいという理由を聞いて安堵していた。
メイドは心配の言葉を口にする。
「アレクセイ様、どこか体調がお悪いのでは無いのですか? もしお加減が悪いようでしたら、お医者様に診て頂いた方が」
次男は書類から顔を上げ、メイドに笑いかける。
明るく答える。
「それは大丈夫だよ。ただ、今少し気がかりなことがあってね」
書類を持ったままメイドのいる方に歩いて来る。
テーブルのそばのソファにゆったりと腰かける。
「さて、と。君をここに呼んだのは他でもない。君に少し聞きたいことがあってね」
次男は深緑色の瞳を細め笑う。
「私に、ですか?」
優しげな笑顔を見た途端、メイドの胸が高鳴る。
(それはつまり、私のことを想っていてくれたということ? 別の誰かではなく私を?)
次男が自分に対して好意を抱いてくれていると勘違いする。
普段のやり取りの間に、特別な意味があると錯覚する。
「こ、光栄なことです。私もアレクセイ様とこうして二人きりになりたいと思っていました」
「そうか、それは良かった」
次男はにっこりと笑う。
メイドが次の言葉を発する前に、言葉をかぶせる。
「オリガを地下室に閉じ込めたのは君だろう? それに、ばあやの鍵束を持ち去ったのも君の仕業だ。おれはこうして二人きりで君と話し合いたいと思っていたんだ」
「え?」
その言葉を聞いて、メイドの顔からさっと血の気が失せる。
次男の顔には先ほどと同じ笑顔が張り付いている。
「君はオリガを自室に連れて行ったと嘘を吐いて、地下室に閉じ込めたのだろう? 本当はオリガは部屋に戻っていなかった。彼女は自室からいなくなったのでは無く、使用人たちの部屋から自室に帰る途中で、君に地下室に案内されて閉じ込められたのだから」
次男は穏やかな表情でメイドを見つめている。
メイドは言葉も無く立ち尽くしている。
「折角こうして二人きりになれたんだし、君の口から本当のことを教えてくれないかな。君はどうして目の見えないオリガを地下室に閉じ込めるような真似をしたんだい?」
次男は諭すように穏やかな声でメイドに話しかける。
メイドは次男から視線を逸らし、かすれた声でささやく。
「あ、アレクセイ様は何を仰っているのですか? 私には、よく意味がわかりませんが」
次男はメイドの反応を見て、肩をすくめる。
深緑色の瞳を細める。
「これでもわかりやすく伝えたつもりだけどね。おれの言い方が悪かったのなら改めるよ。君はどうしておれの大切な女性に危害を加えるような真似をした? これは君を雇ったおれの責任問題だ。場合によっては君を解雇しなければならない」
次男は真面目な顔で話す。
今まで自分とは関係の無いことだと考えていたメイドにとって、自分の仕出かしたことが現実味を帯びて目の前に迫ってくる。
メイドにとって運命の相手だと信じてきた次男にはっきりと言われ、今更ながら残酷な現実が思い出される。
「わ、私は」
メイドは答えに窮する。
ずっと夢見ていた。
いつか金も権力もある美しく優しい青年と結ばれて、こんな不幸な現実から解放される日が来るのではないかと、ずっと信じていた。
そして同時に社会や周囲を蔑んでもいた。
自分は何も悪くない、自分は特別なのだと、そう言い聞かせて毎日を過ごしていた。
そうでなければ、元地主の娘としての自分の自尊心が保てなかった。
メイドは最後に残された矜持でもって、次男を見つめ返す。
「わ、私は悪くはありません」
頑として自分の非を認めない。
次男は少し困った顔をする。
「へえ、そうか。君は自分が悪くないと言うんだね。では、使用人たちの部屋から君がオリガを連れて行ったのを見た、と証言する者たちの説明はどうするんだい? 君は彼らが嘘を吐いていると言うのかい。それに君が家政婦の部屋から鍵束を盗んだ件はどう説明するんだい? 君の部屋から鍵の束が発見されているんだけど」




