過去そして現在22
(寒い)
この暗く寒い地下のワインセラーに閉じ込められてどのくらい経つのだろうか。
目の見えない姉にとっては部屋の暗さは関係が無いが、着ている室内用のドレスではこの部屋の寒さをしのぐことは出来ない。
白い息を吐き出して、手を温めようとすりあわせているが、もう指の先の感触が無い。
騙し騙し歩いていたが、ひねった左足首の痛みから、気力も限界に近付いていた。
どのくらい奥までやって来ただろうか。
歩けど歩けどワイン樽を並べた棚が続くばかりだ。
出口らしきものはどこにも無い。
目の見えない姉にとっては、この部屋がどれほどの広さかさえわからない。
もしかしたら同じところを何回も回っているのかもしれない。
この部屋のどこかに別の出口があるかもしれないという淡い期待も、姉の気力と体力の低下と共に急速にしぼんでいく。
疲労と寒さ、無気力感や倦怠感だけが増していく。
姉はワイン樽にもたれかかりながら考える。
(やっぱりこの部屋に他の出口なんて無いのかもしれない。部屋の出口はあそこ一つで、あの人に鍵を掛けられてしまったから、もうここから出ることは出来ないかもしれない)
姉は顔も知らないメイドのことを思い出す。
名前もついさっき知ったものの、それまで会ったことも覚えていない。
(あの人は、どうしてわたしのことを嫌っているのかしら。あの人もマリアさんと同じように、アレクセイ兄さまのことが好きなのかしら?)
姉がまだ目が見える頃に会った時には、女性にだらしないという印象を受けた。
それが概して女性に対して優しいと言えば、そうとも受け取れる。
(兄さまはきっと多くの女性に好かれるのね。マリアさんもそうだし、あの人だってきっとそうなのね)
姉は他人事のように考える。
女性の嫉妬がどんなに恐ろしいか、姉も身を持って知っている。
思い返してみると、目の見えない姉に対しても色々と面倒を見てくれているし、こうして屋敷にかくまってくれている。
それまでは姉に対して何らかの計算が働いていると考えていたが、若いメイドの話を聞いているうちにそれだけとも思えなくなった。
(兄さまはどうしてわたしなんかを婚約者に選んだのかしら)
社交界でも常に女性との噂の絶えなかった次男のことだ。
婚約の相手だって姉の他にも多くの女性の中から選べたことだろう。
(どうしてわたしに優しくしてくれるのかしら)
いくら考えても姉自身思い当たる事柄が無い。
姉は軽く頭を振って、冷たい石の床に座り込む。
石の床はまるで氷のようだ。そこにいるだけで凍えてしまう。
服を通して刺すような寒さが伝わってくる。
(わたしは目も見えなくて、兄さまの足手まといなだけなのに)
疲れてへたり込み、もう一歩も歩けない。
惨めで哀れな状態に、泣きそうな気持になる。
どんどん暗い思考にはまり込んでいく。
(馬鹿なわたし。変に意地を張って、兄さまへの返事を先延ばしにして。目の見えないわたしに他に選択肢はないのに。アレクセイ兄さまの婚約の申し出を受け入れるしか、わたしに生きる道は無いと言うのに)
姉も馬鹿ではない。
自分の置かれた状況は十分にわかっているつもりだ。
両親も無く身寄りもない目の見えない姉が、何の後ろ盾もないまま一人で生きて行けるほど世の中が甘く無いことはわかっている。
今だって盲目の姉が何不自由ない生活を送れているのは誰のおかげであるかわからない訳では無い。
従兄弟である次男の庇護の下、すべてを与えられているからこうして生活できているのだ。
もしも今彼から見放されてしまったら、姉はこの冬空の下で路頭に迷うことになるだろう。
路地裏で寒さに震え、食べる物も無く、明日をも知れない命になるだろう。
実際の現実を知らない姉ではない。
(わたしの命は、あの人の善意で生かされているのに。目の見えないわたしが何の後ろ盾も無く生きて行く方法なんて、残っているものなんてほとんど無いのに)
もしも姉が次男の庇護も無く一人で暮らして行こうと思うのなら、身を売って娼婦にでもなるしかないだろう。
目の見えない姉には、暮らしのために男性の相手をして、お金を稼いで行くしかないだろう。
(わたし、あの人に我儘ばかり言って。誰のおかげでわたしが今こうして平穏に暮らしているかわからないなんて。あの人のおかげで今のわたしはいると言うのに)
姉はひねった足首をかばい、膝を抱える。
体は小刻みに震え、姉は自分の体を抱きしめる。
寒さのせいで意識が朦朧として来る。
(あの人は暴力も振るわない。罵ることもしない。わたしにひどい態度を取ることも無い。それで十分じゃない。一体わたしはあの人にこれ以上、何を求めるの? あの人は今のわたしに優しく接してくれる。愛情を持って接してくれる。他のことはわからないけれど、それで十分じゃない。わたしはこれ以上、あの人に何を求めているの? 何を迷っているの?)
社交界で多くの人々と会って来た姉にとって、真に心を許せる人は少なかった。
誰もが姉の権力や財力、地位を利用しようと近付いてきた。
そのせいもあるのだろう。
気が付けば社交界の人間を疑ってしまう癖がついていた。
次男に対しても同じだった。
ついつい次男の真意を探ろうとしてしまう。
彼の本心が別のところにあるのではないかと疑ってしまう。
(本来はわたしに選択肢はないのに。あの人はわたしに迷う時間をくれた。もしも返事が気に入らないなら、わたしをこの屋敷から追い出すことも出来たはずなのに)
次男のことを考えれば考えるほど、自分の気持ちがわからなくなる。




