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姉と弟  作者: 深江 碧
十二章 過去そして現在
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過去そして現在16

 不意に姉の体が背後から突き飛ばされる。

「あっ」

 姉は杖を持ったまま、足がもつれるのを感じる。

 とっさに踏みとどまることも、杖で体を支えることも出来ずに、姉はそのままの姿勢で倒れていく。

「うっ」

 姉の体はすぐ下の床に倒れ、したたかに体を打ち付ける。

 足と腰を打ち付け、動くことが出来ない。

 その床は固い石造りで、触れると氷のように冷たい。

 部屋の中も冷え切っていて、寒くて凍えるようだった。

 体を打ち付けた拍子に握っていた杖が音を立てて転がり、どこかへ行ってしまう。

 姉は手を伸ばすことも、体を動かすことも出来ない。

 倒れてすぐ、姉は体を打ち付けた痛みに息が詰まる。

 姉が動けないままでいると、頭上から冷淡なメイドの声が降ってくる。

「いい様ね。目の見えないあんたには、そうやって床に這いつくばっているのがお似合いよ。アレクセイ様に今のあんたの無様な格好を見せてあげたいくらいね」

 くすくすとメイドのせせら笑う声が聞こえる。

 姉は痛みに耐えながら、かろうじて体を起こす。

 冷たい石の床の上に膝をつく。

「あなたは、どうして」

 息を詰まらせながら、か細い声を絞り出す。

 メイドは床にしゃがみ込む姉を冷たく見下ろしている。

「あんたが嫌いだからに決まっているでしょう! ちょっと美人だからって図に乗ってんじゃないわよ。私たちに偉そうに命令して、あんた何様のつもりよ」

 メイドは姉に対して声を荒げる。

 姉はあまりのことに驚いて言葉も出ない。

「わたしは別にそんなつもりでは……」

 弁解しようとしたが、メイドは聞く耳も持たない。

 早口でまくし立てる。

「あんたとなんて口も効きたくないわ。あんたの存在自体が目障りなのよ。さっさとどこかへ行ってよ。私の前から消え失せてよ!」

 不機嫌そうに一方的に怒鳴り続ける。

 姉はあまりことに驚いて言葉が出て来ない。

 いつ、どこでそんなにメイドの気に障ることをしたのか、まるで心当たりがない。

 そもそもこのメイドとも、しっかりと話をするのはこれが初めてのことなのに。

「ち、違います。わたしはそんなつもりは」

 姉は訴えたが、聞く耳を持たなかった。

 メイドは鼻息荒く話す。

「敬愛するアレクセイ様ためだからこの屋敷で働いているけれど、誰があんたみたいな奴の世話なんて好き好んでするのよ。アレクセイ様だってマリアだって他のみんなだって、あんたの見せかけの善人面に騙されているのよ。みんなみんな馬鹿ばかりなのよ。私がアレクセイ様を守ってあげないと、私がみんなを守ってあげないと、もっとひどいことになるんだから。みんなそれに気付かないんだわ!」

 最早独り言のようにメイドは叫んでいる。

「違います。わたしは」

「あんたの話なんて聞きたくないわ!」

 メイドにぴしゃりと言い返される。

 姉は閉口する。

 転んだ時に床に打ちつけた足首がずきずきと鈍く痛む。

「本当に、違うんです」

 姉は震える声でささやく。

 今更姉がこのメイドに何を言っても無駄なような気がする。

 社交界で白百合と呼ばれ、人々の注目を集めてきた姉にとって、こういったやり取りは珍しくも何でもない。

 こういった相手に何を言っても話が通じないのは、姉の今までの経験でわかっている。

 一方的にまくしたてるメイドは、そんな姉の様子など気にした様子も無い。

 そもそも姉をこの部屋に連れて来たのも、すべてこのメイドの仕出かしたことなのだ。

 目の見えない姉を人気のないこの部屋に連れて来て何をするつもりなのか。

 あまり考えたくないことだが、暴力を振るわれ、痛めつけられるかもしれない。

 社交界において姉自身も陰口だけでなく、ひっぱたかれたりといったひどい目に遭わされたことが何度もある。

 出来るだけ穏便にことが済むのを願うことしか出来ない。

 メイドは突然のことに驚いて黙り込んでいる姉を見て冷ややかに笑う。

「でもまさかあんたがアレクセイ様をたぶらかして、婚約者の地位に収まろうとしているなんて思ってなかったわ。アレクセイ様は人が良いから、あなたの腹黒さに何も気づいていないみたいだけれど、私は違うわ。あなたの醜い本性も計略も図々しさも、何もかもお見通しなんだから。私がこうして手を打たなければ、アレクセイ様が取り返しもつかない目に遭うところだったわ。本当に良かった」

 散々な言われようだった。

 姉はかろうじて我慢している。

 何を言わずにうつむいている。

 メイドは歩いて来てうずくまる姉のそばに立つ。

「あんたも何とか言ったらどう? 私にこうしてあんたの魂胆が何もかも見破られて、さぞかし悔しいでしょうね。最初の思惑と外れて、残念だったんじゃないの?」

「わたしは、そんなつもりでは」

 姉の言葉がメイドの気に障ったらしい。

 メイドはいらいらした様子で声を張り上げる。

「まだしらばっくれるつもり? あなたは人の良いアレクセイ様を、その美貌でたぶらかしたんでしょう? アレクセイ様に取り入って、婚約者の地位までも手に入れようとしたのでしょう? どこまで良い子ぶれば気が済むのよ! どこまで私を騙せば気が済むのよ!」

 姉は黙っている。

 怒鳴るメイドの声を聞いている。

 ここは寒い。

 石の床は氷のように冷たく、この部屋は先程歩いていた通路よりもずっと気温が低かった。

 この部屋が外と繋がっているのでは無いかと錯覚してしまうほどだ。

 それに先ほどひねった足首がずきずきと痛む。

 姉は白い息を吐き出し、寒さに震えている。

 メイドが姉の服の襟元をつかむ。

「どうせその美貌と体を使ってアレクセイ様に取り入ったのでしょう。どうせ人には言えないような汚い手を使って、アレクセイ様の婚約者になろうとしたのでしょう。目の見えないあんたのことだから、わざとらしくアレクセイ様の同情を引いて、婚約者の地位に就いて、一生何不自由ない生活を手に入れようとしたのでしょうけれど」

 メイドは襟首をつかんでいる姉に顔を近付けて、鼻で笑う。

「でも残念ね。私がいるからには、もうあんたの思い通りにはさせないわ。アレクセイ様の目を覚まさせて、あんたをこの屋敷から追い出してやるんだから。根性の腐ったあんたなんて、誰にも顧みられることも無く、路頭に迷って死ねばいいんだわ!」

 メイドは姉の襟首を離し、高い声で笑う。

 その高い笑い声が部屋に木霊している。

 メイドは靴音を立てて、姉から離れて行く。

「じゃあね、オリガ様。御機嫌よう」

 メイドはせせら笑うようにそう言う。

 じゃらりと鍵の束の音を鳴らし、部屋の扉を閉じる。

 扉は閉められ、鍵の掛かる音が聞こえる。

 それきり部屋の中では物音一つ聞こえず、完全に静かになった。

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