過去編3
「もうあなたに付きまとったりしないから。あなたに迷惑をかけることもしないから。でも、あなたとの約束は絶対に守る。このことは何があっても、他の人には言わないからね」
彼女はそう言うと、部屋の扉を開けて、外へ飛び出して行った。
それは弟もびっくりするほどの逃げ足の速さだった。
部屋に残された弟は、とっさのことに反応できなかった。
ただただ廊下の角を曲がる姉のスカートの端を目で追うことしかできなかった。
そんなことがあって以来、弟は両親にこそ丁寧な態度を取ったが、姉に対してだけは遠慮せずに言葉を交わすようになった。
その遠慮のない言葉は、時として姉を怒らせたが、喧嘩になるほどではなかった。
彼らはほぼ一般的な姉弟に近い関係を築いてきたと言える。
実際のところ、弟の正体について姉がはっきりと気付いていた訳ではなかった。
弟が何か特別なことをしているのだとはうっすらと気付いていたが、それも一緒に暮らしていくうちに気にならなくなった。
一方の弟は、自分のことを見抜いた姉のことを常に意識していたし、一度たりとも忘れたことはなかった。
「ねえ、母さん」
姉は母親に尋ねる。
「――は、本当に好きな人はいるのかしら」
すると母親は口元に手を当てて、笑う。
「あら、――の好きな人が気になるの? 駄目よ、お姉さんだからと言って、弟のことを何もかも知ろうとしては」
彼女は顔を赤らめる。
むきになって答える。
「ち、違うの。そう言うことじゃなくて、わたしはただ、弟が女の人を泣かして回っているんじゃないかと、心配して言ってるの」
母親は驚いた顔をする。
「――が? まさか、――に限って、そんなことはないでしょう」
母親の反応に、彼女は心配そうな顔をする。
「だって、――は休みになるといつも家にいないし、普段から夜遅くにならないと帰ってこないから。てっきり遊び歩いているのかと思って」
「つまり、あなたは弟に構ってもらえないのが不満なのね?」
彼女の顔に朱が混じる。
「ち、違うわ! わたしは別に、弟に構ってもらいたいと思っている訳ではなくて。ただ、家族としてみんなで一緒に過ごす時間は、大切にしたいな、と思っているだけで。だって、わたしは後数年しかこの家にいられないから。後何年かしたら、婚約者の家に嫁がなきゃいけないから、だから」
彼女の元気のない声に、母親の表情が陰る。
「そう、だったわね」
彼女には父親の決めた婚約者がいた。
婚約者は家柄も財産も申し分なく、いずれ彼女の父親の財閥を背負い、一族を取りまとめる役目を担う若者だった。
彼女もこれまでに数回、婚約者と食事をする機会があったが、見目麗しい有能そうな若者だという印象以外、何の気持ちも抱かなかった。
彼女もこの家に生まれた以上、政略結婚であっても、妻として夫を支えて行こうという気概は持っているつもりだ。
しかしだからと言って、親の決めた婚約者に愛情が抱けるかと言われれば、はなはだ疑問だった。
相手の婚約者の男性はとても魅力的な人だ。
だが、相手のことが好きか、と問われれば、今の彼女には、わからない、と答えることしかできなかった。
「いっそのこと、弟が父さんの跡を継げばいいのに」
彼女はぽつりとつぶやく。
母親は穏やかに笑う。
「それは、ダメなのよ。養子縁組をお願いしたお姉さん、あなたにとっては伯母さんに当たる人から言い含められているのよ。彼を養子にするとき、彼を財産のいっさいの相続権から外すように。彼は出身が貧しい出だから、性格も意地汚く、つけあがるから、決して情けをかけ過ぎないようにって」
「え? それはどういうことなの?」
彼女は納得がいかないとばかりに、勢いよく立ち上がる。
「どうして伯母さんは、弟のことをそんな風に言うの? 弟は意地汚くもないし、つけあがってもいない。いくら伯母さんとは言え、弟のことを悪く言い過ぎよ」
腹を立てる彼女に、母親も困った様子だった。
「そうよね。でも、伯母さんは厳しい人だから、私の方もそれを飲まざるを得なかったの。旦那さんが亡くなってから、伯母さんも色々と苦労されたんじゃないのかしら。伯母さんの旦那さんの家も資産家で、会社をいくつも持っていたと言うから」
母親は実の姉を擁護するように言い添える。
「でも、それにしてもひどく言い過ぎだと思う。そんなんじゃ、弟が可哀想よ」
彼女はまだ何か言おうとしたが、母親の顔を見てそれ以上は言わなかった。
大人しくソファに座る。
母親は静かな声で話し続ける。
「伯母さんにそう言われた時、私と夫はどんな子が来るんだろう、ととても不安だったわ。でも実際に紹介されたのは、ちょっととっつきにくいけど、とても良い子で、素直な子だったわ。それにあなたの面倒もよく見てくれたしねえ」
母親は彼女を見て笑う。
「どうせわたしは手がかかる子どもですよ」
彼女は不機嫌そうにそっぽを向く。
母親は聞こえないふりをする。
「だからね。あなたが弟のことを心配するのもいいけれど、恐らくあなたが心配していることは杞憂だと思うの。あの子はとても一途な子だから、大勢の女の子を泣かすことはないんじゃないのかしら」
彼女はとても奇妙な顔をする。
「弟が一途? 母さん、どうしてそう思うの?」
母親はあっけらかんとして答える。
「あら、だって、すぐそばで見ていれば自然とわかることよ。こう見えても、あなたがクラスメイトに思いを寄せている時、私はちゃんとわかっていたのよ。そしてあなたの思いが叶わなかったことも、私にはちゃんとわかったの。こう見えても、人の恋心には敏感なのよ」
母親は目を伏せて、わずかに声を落とす。
「ただ残念なことに、彼の気持ちは恐らく報われないでしょうね。彼は決して叶うことのない恋心を抱いているもの。私も出来ることなら彼の気持ちを叶えてあげたいけれど、それはきっと無理でしょうね」
刺繍の手を止めて、母親は悲しそうな顔をする。
母親の悲しそうな顔を見て、彼女まで悲しくなってくる。
弟が誰に恋心を抱いているのか、彼女はそんな無粋なことは聞かなかった。
代わりに、ある提案をする。
「ねえ母さん。弟への誕生日プレゼントは、弟が思いを寄せている人が喜ぶような物がいいと思うの。きっと弟に何をプレゼントしても、あまり喜ばないんだから。せめて好きな女性が喜ぶような物をプレゼントするといいと思うの」
彼女は母親に身を乗り出す。
母親は少し驚いた顔をする。
「そうね。それはつまり、あなたも弟の好きな人が気になる、と言うことね?」
彼女は慌てて否定する。
「ち、違うわ。ただ、どうせ叶わない恋なら、弟には早く吹っ切れてもらって、自由な恋愛を楽しんでもらいたいと思うから。わたしが恋愛が出来ない分、せめて弟には自分の人生を楽しんでもらいたいの」
母親はわずかに目を伏せて、そうね、と小さくつぶやく。
「彼には、幸せになって欲しいと、私も心から願っているわ」
しみじみとつぶやいた。