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姉と弟  作者: 深江 碧
十二章 過去そして現在
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過去そして現在7

 姉は長い間黙っていた。

 婚約、の二文字がぐるぐると頭の中を回っている。

 これは夢ではないかと勘違いしてしまう。

紅茶の香り、暖炉の薪のはぜる音、そして何より次男と繋いだ左手の温もりが、これがまぎれもない現実だと物語っている。

左手の薬指にはまる指輪をついつい意識してしまう。

 今、姉は目の前に座る次男に婚約を申し込まれている。

 それは動かしようのない事実だった。

「わ、わたしは、その」

 姉は赤面したまま言葉に詰まる。

 以前、姉には父親の決めた婚約者がいたが、その時は自分のこととは思えず、どこか遠い出来事のように思えた。

婚約や結婚について考えたことが無い訳では無い。

将来は親の決めたしかるべき相手と結婚し、財閥を継ぐことになるのだろう、というおぼろげな未来像はあった。

いつかは結婚した男性との間に子どもが生まれ、その子が財閥の跡を継ぐことになるのだろう。

その時は姉も母親として、子どもがより良い選択を出来るように手助けしてやらねばならない。

財閥のためにも、周囲の人達のためにも、姉に出来る限りのことをしなければならない、という覚悟はあった。

しかしそれは、いつか将来、のことであって、今すぐにではない。

そして姉が将来結婚するべき相手も、父親が決めた相手であって、自分で決めた相手ではないと思っていた。

自分に選択権があるとは、その時は思っていなかったのだ。

だからと言って、黙って親に従っているだけの姉でも無い。

音楽学校に通っていたのも、姉にとって歌うことが自分の好きな事であり、将来は音楽の道に進めたらいいとは考えていた。

しかしそれも夢であり、やはり実現できることとは思っていなかった。

それがあんなことがあって、すべてが変わってしまった。

両親が亡くなって、事故で目が見えなくなって、唯一の家族である弟とも別れてしまった。

今までは財閥総帥であった父親の影に隠れ、守ってもらうべき立場だったが、これからは違うのだろう。

これからは自分の足で歩いて行かなければならない。

自分ですべてを選択して行かねばならない。

信じるべき相手、信用ならない相手を、自分で見分けて判断していかなければならない。

そう考えていた矢先のことだった。

次男に婚約を申し込まれるとは、夢にも思っていなかった。

彼は姉の命を助けてくれた。

寝る場所も食べる物も衣服も与えてくれ、目の見えない姉がこうして何不自由ない生活を送れるのもすべては次男のおかげだ。

こんな良い申し出はすぐにでも承諾するべきなのだろう。

「あの、ええと」

 姉は頭から湯気が出そうなくらい真っ赤になって、しょんぼりとうつむいている。

 次男にどう答えればいいのか、さっきからずっと考え込んでいる。

 繋いだ左手をついつい意識してしまう。

 薬指にはまっている指輪の価値を考えてしまう。

 次男はきっと悪い人では無いのだろう。

危険を承知で姉の命を助けてくれたのだから。

 完全に善い人では無いのだろう。

次男は何らかの思惑があって姉を手元に置きたいのかもしれない。

用が済めば姉は捨てられてしまうかもしれない。

(わたしは本当にこの人を信じていいの?)

 今までの行動から見ても、いつも身の回りの世話をしてくれるメイドのマリアの話を聞いても、次男が信頼に値する人物であることは何となくわかった。

 きっと友人としてならば、良い関係を築けるのだろう。

けれど婚約者として、将来の伴侶として見るとどうだろうか。

この人と共に生きて行けるのだろうか。

この人と一生を共にしても後悔しないだろうか。

 その答えは容易には出ない。

 姉の一生を左右することであるだけに慎重にならざるをえない。

 本来ならば時間をかけて考えて返事をするべきなのだろう。

しかし今は相談するべき信頼できる相手も、両親も友達もいない。

この部屋には次男と姉しかいない。

 誰かに相談することも出来ずに、姉一人の決断だけで次男への婚約の返事をしなければならない。

 一生を左右する問題に向き合わなければならない。

 静かな部屋に暖炉の薪が勢いよく燃える音だけが響く。

 テーブルの上の紅茶に手をつけないまま、香りと湯気だけが立ち上っている。

 そうやって姉がひたすら困っていると、次男はふっと息を吐き出す。

「婚約の返事は今すぐでなくても構いませんよ、オリガ嬢」

 絡ませた手をそっと離す。

 手の感触が無くなる。

 姉の左手が自由になる。

「そ、そうですか?」

 姉はほっと安堵の息を吐き出した。

慌てて左手を胸元に寄せる。

もう片方の手で左手を包む。

 まだ頬は熱を持っている。

 心臓の鼓動は高鳴ったままだ。

 先ほどの緊張を振り払おうとしても、すぐには収まってくれない。

(わたしは本当にこの人のことが好きなの?)

 自分の心に問いかけてみても、すぐには答えが出て来ない。

 そんな姉を次男は穏やかな笑顔で見つめている。

「急いであなたに返事をしてもらいたい訳ではありません。あなたにも色々と思うところがあるでしょう。返事は急ぎませんから、あなたの心の整理が出来たらまた教えて下さい。お返事はその時にお聞き致しましょう」

 次男はソファから立ち上がる。

 テーブルを回り込み、姉に手を差し出す。

「今日はあなたとこうしてゆっくり話が出来て良かった。あなたにおれの気持ちを知ってもらえて良かった。突然こんな話しをして、あなたを驚かせてしまったかもしれません。申し訳ありません。しかしあれは紛れもないおれの本当の気持ちです。どうかあなたの嘘偽りないお気持ちを教えていただければと思っています」

「わ、わたしは、そんな」

 姉の頬がまた熱くなる。

 次男に手を握られ、姉はその手をついつい意識してしまう。

 その言葉は暗に、姉に断るな、と言っているものではないか。

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