過去編2
また元のようにぼんやりとした顔に戻った弟に背を向けて、彼女は居間から出て行った。
不機嫌に廊下を歩く。
その後を足音もさせずに弟が着いてくる。
特に着いてきて欲しかった訳ではなかったのだが、何故か弟は彼女の後を着いてきた。
廊下の端まで来たところで、彼女は弟を振り返る。
彼女の顔には弟を疑うような表情が浮かんでいる。
「あなた、一体何なの?」
姉に問われ、弟は足を止める。
「何って?」
弟はぼんやりした顔で、首を傾げる。
彼女はいらいらとして答える。
「ちょっと来て」
弟の手をつかみ、手近な部屋に飛び込むと扉を閉める。
弟と向かい合い、薄暗い部屋の中で小声で話す。
「あなたの正体、ってこと。あなた、普通の孤児じゃないでしょう。何だか、あなたは特別に違うという気がするの。何となくだけど」
それを聞いて、弟の表情が引きつる。
彼女はそれに気づかず、話し続ける。
「あくまでわたしの勘だけど。あなたは妙に大人びてるし、丁寧だし。普通の子どもじゃないと言う気がするの。何というのかしら。何だか普通に育てられていないというような、もちろん悪い意味じゃなくて、特別な教育をされてきたような、そんな感じがするの」
彼女はそこまで言って、おもむろに弟の顔を見る。
すると弟の顔を真っ青だった。
ぶるぶると小刻みに体が震えている。
彼女は慌てる。
「ど、どうしたの? わ、わたし、何か変なこと言った?」
弟の顔は、今にも倒れてしまいそうなほど真っ青だった。
この時、姉は知らなかったが、彼がこの家に引き取られた時、主人である伯母に命令されたことがある。
それは一つにはこの家の家族を守ること。
二つには、自分の正体を周囲には決して知られてはいけないこと。
それが守れなければ、彼は伯母の元へ連れ戻され、処分されると言うことだった。
彼はまじまじと姉の顔を見る。
普段の彼であれば、目撃者はその場で消せばよかったのだが、相手が守るべき家族、姉ではどうしようもない。
彼は自分の両手を見下ろす。
自分の死を思い、恐怖に身を震わせる。
彼の顔に、初めて本当の感情が浮かぶ。
両目に大粒の涙がため、かすれた声で訴える。
「い、いやだ。いやだよ。戻りたくないよ。まだ、死にたくない。死にたくないよ」
彼は床にへたり込み、涙を流して震えている。
それは彼が今までに命を奪って来た者たちと同じだった。
命乞いをする人々を、彼は容赦なく命を奪ってきた。
そうすることが唯一彼の生きる道だったし、人の命を奪うことに迷いも感じていた。
そんな彼が今更命乞いをするなど都合のいい話だったが、彼もまだこの年齢で死を恐れぬほど心の準備が出来てはいなかった。
伯母は今までの彼と同じように、仕事に失敗した彼の命を容赦なく奪うだろう。
そして何事もなかったかのように、伯母は妹夫婦に次の子どもを養子として送り込むのだろう。
次はもっと優秀で、姉とも家族ともうまくやっていける子どもを。
彼は抗いようのない自分の行く末に恐怖し、身を震わせ、泣いていることしかできなかった。
そんな時、彼の頭上に言葉が降ってくる。
「ごめんね」
姉の悲しげな声が耳元で聞こえる。
姉は彼の体をそっと抱きしめ、謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめん、ごめんね。わたしの無神経な言葉で、あなたを苦しませてしまって。あなたがそんなに思いつめてたこと、わたし知らなくって。今言ったことは誰にも言わないから。父さんと母さんに頼んで、元の孤児院なんかに絶対に返さないから。だから、安心して」
彼の震えはすぐには収まらなかった。
今まで彼に都合のいいことを言い、利用しようとした人々を何人も知っている。
彼は姉の言葉をすぐには信じられなかった。
「ほ、本当に?」
人々は彼に都合のいいことを言って、危機が去るとすぐに手の平をひるがえす。
姉は大きくうなずく。
「うん、絶対の絶対よ。誰にも言わないと、約束するから」
「絶対に?」
彼の心には人に対する根深い疑いの根が張っている。
仕事柄、疑うことが日常の彼にとって、人を信じることはほとんど不可能だった。
その約束も素直に信じられなかった。
姉は彼から体を離し、困ったような顔をする。
「どうすれば、あなたに納得してもらえるのかなあ」
姉は頬に手を当てて、考え込む。
彼は震えは収まったものの、泣き腫らした顔は赤かった。
どちらにしても、姉に気付かれてしまった以上、彼にはどうすることもできなかった。
もはや彼の命は風前の灯で、その手綱は姉が握っていると言っても過言ではなかった。
姉は彼の心中も知らず、提案する。
「じゃあ、こういうのはどう? あなたの秘密を知ってしまった代わりに、わたしがあなたに絶対に父さんと母さんには知られたくない秘密を一つ教える、というのは」
彼は何も答えない。
姉はかまわず話し続ける。
「じゃあ言うわね。ここだけの話、母さんの大切にしていたスカーフを間違えて暖炉に落としたのは、実はわたしなの。だって、一度つけてみたくて、ちょっと借りて戻して置くつもりだったのに、暖炉の火が燃え移ってしまって、誤って暖炉に放り込んでしまったの。でも、言い出すのが怖くて、まだ誰にも話せてないの。でも、これは誰にも言わないでね。約束だからね」
言い終えた姉は、赤くはれた弟の顔を見下ろす。
彼女は優しく微笑む。
「約束、だからね」
弟の手を取って、小指をつなぐ。
暗い目をした弟に笑いかける。
彼女は、弟が何に苦しんでいるのか、その時はまだわかなかった。
ただ弟の力になりたくて、精一杯のことをしてあげたいと思っていた。
しかしそれが結局は裏目に出てしまい、こうして弟を辛い気持ちにさせてしまった。
――どうして仲良くなれないのかな。
――わたしがもう少ししっかりした姉だったら良かったのに。そうすれば彼にこんな思いをさせなくて済んだのに。
そう考えると、気分がどんどん落ち込んでくる。
悲しい気持ちになってくる。
彼女の両目に涙がにじむ。
「ごめんね」
溢れた涙が彼女の白い頬を伝う。
「ごめんね、わたし、あなたと仲良くなりたかっただけなのに。どうしてうまくいかないんだろう。どうしてあなたに辛いことを思い出させてしまう言葉しかかけられないんだろう。ごめんね。わたし、あなたともっと仲良くなりたかっただけなのに。お姉ちゃんらしいことをしてあげたかっただけなのに」
彼女は涙を流しながら、笑う。
すっくと立ち上がる。