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姉と弟  作者: 深江 碧
十二章 過去そして現在
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過去そして現在2

 そのことが姉の心に重くのしかかってくる。

 こんなことなら、父親にもっと色々なことを聞いておけば良かった。

 両親のことを思い出すと、姉の心に悲しみが舞い戻ってくる。

 立ち直りかけた気持ちがくじけそうになってしまう。

 姉は両の目に涙が溢れそうになるのを感じる。

(こんなことじゃ、いけない。折角、前に進む一歩を踏み出そうとしているのに。わたしはいつまでも暗い場所に立ち止まっていてはいけないのに。甘えていてはいけないのに)

 姉は胸に力を込めて、ぐっと涙をこらえる。

 落ち込みそうになる心を、無理に奮い立たせる。

 肩を震わせながら、かすれた声を絞り出す。

「で、でも、わたしは、父を見ていましたが、父が叔父様と自分を比べることや、悪く言っていたことを聞いたことがありません。だから今までは、特別父と叔父様の関係を意識したことは無いのです。兄弟仲の悪くない、普通の兄弟だと思っていただけです。そのせいか、わたしはこれまで叔父様のことを何も知らなかった。病院で会った時だって、勝手に悪い人だと決めつけてしまった。何も知らないが故に、そう思い込んでしまった。実際には叔父様が何もしようとしていたのか、どうしてわたし達を捕えようとするのか問うこともせずに、逃げ出してしまった」

 次男は隣から姉のうつむいた顔を覗き込む。

 気遣うような穏やかな声で話す。

「オリガは優しいね。でも、あの時は仕方がなかったんじゃないかな。君は事故に遭ったばかりで、目が見えなく気が動転していただろうし、君の弟君も君を逃がそうと必死だった。伯父さんが亡くなったばかりのあの時は、本当の情報も偽の情報も入り乱れていたから、おれも君が生きているという真実に行き当たるまでに苦労したものさ。あの時ばかりは、あのクソ兄貴にしてやられたな」

 最後の一言は吐き捨てるようにつぶやく。

 姉は膝の上に置いた紅茶カップのふちを指でなぞっている。

「でも、それでも。わたしは、叔父様にひどいことをしてしまった。何も知らないままに逃げ出して、ずっと勘違いしていたのですから。出来ることなら叔父様に、あなたのお父様に実際に会って謝りたい。謝って、真実を知りたいと今では思っているのです」

 次男はソファの背もたれにもたれかかり、天井を見上げる。

「君が親父に謝る必要は無いよ、オリガ。君は何も悪くない」

「でも、わたしは」

 姉はそれっきり黙り込み、ぬるくなった紅茶のカップを見下ろしている。

 暖炉では赤い炎が勢いよく燃えている。

 薪のはぜる音が静かな部屋に響く。

「わたしが自分の態度を決めなかったのが、きっとそれがいけなかったのですね」

 姉は紅茶のカップを持つ手に力を込める。

 白磁のカップの中の紅茶が波立っている。

 持つ手が微かに震えている。

 次男はそんな姉を見て、ふっと息を吐き出す。

 深緑色の瞳を細め、姉の肩を抱き寄せる。

「オリガは本当に優しいね。親父やおれのことまで気遣ってくれるんだから」

 次男はまるで子どもをあやすように、姉の黒髪を撫でる。

「べ、別に、兄さまのことを言っている訳ではありません。わたしは叔父様のことを言っているのであって」

「でも、君の言う叔父様は、おれの親父だからね。不器用で要領が悪くて、君の父親ほど上手く立ち回ることが出来ない平凡な人物さ。人望も無くて、すぐに人に勘違いされて、その上、女性にはだらしないと来ている。親父も、そしてその息子のおれも、君には嫌われて当然の男さ」

「わ、わたしは、そんなことを言っているのでは」

 姉は赤面してうつむいている。

 半分ほどになった紅茶に姉の拗ねた顔が映っている。

 どうしても次男が相手では調子が狂ってしまう。

 次男は姉の赤い顔をにやにやと笑いながら見つめている。

「でも、親父が無能では無いにしろ、君のお父さんほど有能で無いのは事実さ。先代の財閥総帥、つまりおれたちの祖父が引退した後、実質財閥を立て直したのは君のお父さんだからね」

「それは、どういうことでしょうか?」

 姉は隣の次男の顔を見上げる。

 物問いたげな視線を向ける。

 次男は不思議がっている姉に顔を近付けてくる。

「君のお父さんが人望があったのは事実だよ。そして部下たちを使うのが上手かったのも本当さ。おれの今の部下イーゴリを市井から見出し、おれのところに連れて来てくれたのも伯父さんなんだ。あれは確か、母さんが死んで、おれとフェリックスが財閥に来て間もないことのことさ。伯父さんは親父の代わりにおれたち兄弟の後見人になってくれた。だから君のお父さんにはとても感謝している。おれたち兄弟にとっては恩人なんだ」

 知らなかった。

 この目の前の青年の兄弟と父親とに繋がりがあったなんて。

 そしてこの青年も過去に母親を何らかの理由で亡くしているなんて。

「そう、だったんですか。わたしは今までそのことも知りませんでした。父があなたの後見人になっていたなんて、何も知らなかった」

 姉はそうつぶやいて、視線を膝の上に落とす。

 白磁のカップの中の紅茶は冷めてしまっていた。

 父親のこと、伯父さんのこと、この青年のこと。

姉にとっては知らないことばかりだった。

(わたしはもっと、色々なことを知らなければならない)

 その気持ちは、この頃特に強く思うことだった。

 姉は顔を上げる。

 隣に座る次男に問い掛ける。

「だからあなたは、父さんの娘であるわたしを助けてくれたのですか? 父さんに恩があったから、その恩返しのつもりで助けて下さったのですか?」

 見えない青い瞳で、間近に迫る次男の顔を仰ぎ見る。

 不思議そうに小首を傾げる。

「さあ、どうだろうね」

 次男はわずかに笑んで、姉に顔を近付ける。

 目の見えない姉の鼻先と次男の鼻先が触れ、唇と唇が重なる。

すぐに離れる。

 姉がそれを意識するよりも早く、次男が照れくさそうに笑う。

「おれとしては、伯父さんとのことを抜きにしても、美しいあなたともっと親密な関係になりたいと思っているのですよ?」

 その言葉をきっかけに、姉の顔が見る見る熟した林檎のように真っ赤になっていく。

 膝の上に置いた紅茶のカップを取り落す。

 冷えた紅茶を姉のスカートと絨毯の上にぶちまけ、白磁のカップが音を立てて落ちる。

「あっ」

 姉はソファから驚いて立ち上がる。

「ご、ごめんなさい」

 目の見えない姉にはわからなかったが、もしかしたら次男にもこぼれた紅茶が掛かってしまったかもしれない。

 姉は持っていたハンカチを慌てて取り出す。

「大丈夫ですか、兄さま。服に紅茶がかかってしまいませんでしたか?」

 姉は次男の方にかがみこみ、持っていたハンカチで服を拭く。

 自分のスカートがこぼれた紅茶で濡れてしまったが、それほど大したことでは無い。

 冷めていたために火傷にならなくてすんだと思えば、まだ良かった。

 取り乱す姉に、次男は軽く手を上げる。

「あぁ、大丈夫だよ、オリガ。すぐに使用人を呼んで片付けてもらうから」

「も、申し訳ございません」

 姉はしょんぼりとうなだれる。

 目が見えない自分の手際の悪さに、自己嫌悪に陥ってしまう。

(わたしも父さんのように要領よく振る舞えたら良かったのに。もっと多くのことが出来たら、こんな事態にはならなかったかもしれないのに。もっとわたしが賢かったら、父さんと母さんも死ぬことは無かったかもしれないのに)

 ついつい落ち込んでしまう姉の青い両目に、じんわりと涙がにじむ。

 自分の不甲斐なさが身に染みる。

(い、いけない。こんなことじゃ。こんなところで泣いたら、またこの人を困らせてしまう)

 姉はぷるぷると小さく首を横に振る。

 いくら気持ち的に立ち直ったと言っても、心の中の悲しみから決別出来たわけではないのだ。

 両親が亡くなった悲しみは、まだ心の中にわだかまっている。

 次男はじっと姉の暗い顔を見つめている。

「とりあえず、こぼれた紅茶とカップを片付けましょう。それにあなたのスカートにもかかってしまっていますから、そちらも着替えましょう。話の続きはそれから致しましょうか」

 姉に気を遣ってか、次男は駆けつけて来た使用人に、自分がこぼしたと話した。

「オリガ様、お召し物を変えますので、どうぞこちらへ」

 まだ次男に聞きたいことは沢山ある。

 どうして叔父は父を殺したのか。

 両親を殺した犯人は本当に叔父なのか。

 叔父の長男が両親を殺したというのなら、どういった動機があったのか。

 どうして次男はそのことを知っているのか。

(どうしてあなたは、わたしにこんなに親切にしてくれるの? あなたの本当の目的は何なの?)

 姉は後ろ髪を引かれる思いで、若いメイドに伴われて次男の部屋を後にした。

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