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姉と弟  作者: 深江 碧
十一章 あなたに出来ること、わたしに出来ること
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あなたに出来ること、わたしに出来ること7

 その後、体調の回復した姉は、毎日のように温室に通っていた。

 部屋で編み物をしていても、何かと気遣ってくる次男についつい気が滅入ってしまう。

 優しい言葉を掛けられるたびに、彼の真意が気になって仕方がない。

 素直に厚意に甘えることが出来ない。

 暗い気持ちを紛らわすためにも、姉は温室に通い詰めた。

 彼を避けるようになった。

 次男もさすがに温室までは訪ねてくることはないようだった。

 彼には悪いが、温室で草花に触れることは姉の心を穏やかにし、ひと時、現在置かれている状況を忘れさせた。

 その日も朝食を終えた姉は、温室の中央にある噴水のへりに座り、水音に耳を澄ませていた。

 小鳥や動物の声が、緑の木々の中から聞こえてくる。

 辺りは花の香りに満たされている。

 姉のそばには、若いメイドが控えている。

 盲目の姉は一人では温室に来ることさえ出来ない。

 メイドに手を引かれないと、屋敷の中を自由に歩くことも出来ない。

 それは姉自身も自覚している。

(わたしは、一人では何も出来ないのね。自由に歩くことも、本を読むことも、絵を描くこと、身の回りのことでさえ、自分一人では何もできない)

 これまで考えないようにしていた現実が、姉の心に重くのしかかってくる。

 逃れようの無い事実が目の前に突き付けられる。

(わたしは、何も出来ない)

 姉は膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめる。

 唇を引き結ぶ。

(目の見えないわたしは、あの人にとってはただのお荷物でしかない)

 現実を見ないようにしていた訳ではない。

 今までは逃げるのに必死で、出来るだけ考えないようにしていただけだ。

 風邪も治り、体調も安定した今の姉にとって、これからのことを考えるゆとりが出てきた。

 これからのことを真剣に考える時間が出てきたのだ。

(わたしは、これからどうしたらいいのだろう。これからどうすればいいの? あの人は何がしたいの?)

 小鳥のさえずりや、水音が聞こえてくる中で、深刻な問いかけは、いかにも場違いな気がした。

 今こうしている間にも、温室の外では雪が降り続いているのだろう。

 凍えるような寒さの中、何もかもが雪に埋もれているのだろう。

 体調が良くなってから、姉はずっとこれからのことを考えている。

 今までの、過去ばかり振り返っていた頃に比べれば、ずいぶんと前向きにものを考えることが出来るようになったとは思う。

 しかしその問いかけは、容易に答えが出るものではなく、姉の心は暗く沈んでいる。

 花の甘い香りに包まれ、耳に優しい水音を聞いていても、姉の心が晴れることはない。

(このままじゃいけない。わたし自身が変わらないといけない。あの人のことを避けて、それで今の状況がどうにかなる訳ではないのに。答えを先伸ばししているだけじゃない。あの人の親切を踏みにじっているだけじゃないの)

 姉は暗い考えを振り払うかのように頭を振る。

 噴水のへりに腰かけたまま、見えない目で温室の高い天井を見上げる。

(わたしに出来ることを探さないといけない。わたしから行動しないといけない)

 姉は噴水のへりの大理石から、すっくと立ち上がる。

 正直に言うと、次男の真意を知るのは怖い。

 この出来事の裏側にある真実がどのようなことか知ってしまえば、後戻りが出来なくなるような気がするからだ。

(たとえここに留まっているだけとしても、少しでも前に進まないといけない。このまま暗い気持ちでいるよりも、真実を知って落ち込んだ方が、きっと何倍も良いことだわ)

 くじけそうになる心を奮い立たせる。

 しかしこうしてこの明るい温室にいる間にも、姉の心にじわじわと不安の気持ちが忍び寄ってくる。

「こんなことじゃ、いけないのに」

 心の中に留めておいた気持ちが、つい口をついて出る。

 姉は驚いて口元を押さえたが、遅かった。

 そばに控えていた若いメイドが不思議そうに声を掛けてくる。

「どうかされましたか、オリガ様」

 噴水のふちに腰かける姉のそばに心配そうに歩み寄ってくる。

「やはり、まだお体の調子が悪いのでは」

 姉は慌ててそれを否定する。

「い、いいえ、わたしは大丈夫です。ただちょっと今の生活にまだ慣れなくて」

 不安そうにそばに控えているメイドに、姉は何とか話題を変えようと考える。

「ええと、その、ま、マリアさんは、以前からアレクセイ様のお屋敷で働いているのですよね。でしたら、わたしよりもアレクセイ様のことをよく御存じですよね。マリアさんの目から見て、アレクセイ様はどんな方なのでしょうか。どうして目の見えないわたしに、このように良くして下さるのでしょうか?」

 メイドが息を飲んだ気配がした。

「どんな方とは、どういう意味でしょうか?」

 一度気持ちを口に出すと、歯止めが効かなくなる。

 せきを切ったように姉の口から言葉が出てくる。

「わたしは、両親を事故で亡くしてから、何者かに命を狙われ、ずっと血の繋がらない弟と一緒に逃げて来ました。でも二人では逃げられなくなって、弟と離れ離れになってしまって、一人ではどうにもならなかったところを、アレクセイ様に助けられたのです。でも、その時のわたしはアレクセイ様を信じられずに、助けていただいたにも関わらず、そこから逃げ出してしまったのです。わたしはひどい女だと思います。その時は、アレクセイ様の厚意を素直に信じられなかったのですから」

 話しながら姉の両目から涙が落ちる。

 膝の上に置いた手に涙が滴る。

「オリガ様」

 メイドが気遣うように姉の名を呼ぶ。

 姉は見えない両目に溜まる涙を指でぬぐう。

「わ、わたしは、わたし自身、アレクセイ様に助けてもらう価値があるとは思いません。目の見えないわたしに、出来ることは少ないですから。もしもあの時、助けていただいてなければ、わたしなど、誰かの手にかかって死んでいたか、どこかの路地裏で凍死していたでしょう。だから、どうしてアレクセイ様がわたしを助けてくれたのか、その理由が知りたいのです。もしわたしに出来ることがあるのなら、出来る限りのことはしたいと思っているのです」

 あんなに心の中で迷っていたはずなのに、いざ口に出してみると既に結論が出ていたことに姉自身が驚く。

 慌てて付け加える。

「で、でも、わたしは、そんな大したことは、出来ないのです。わたしは一人では自由に出歩くことも出来ないのですから」

 顔を赤くしてうつむいている。

 膝の上でぎゅっと両手を握りしめている。

 若いメイドが小さく笑う声が聞こえる。

「ふふっ、オリガ様はお可愛いですね」

 メイドは声を立てて笑っている。

 姉はうつむいたまま、ますます顔を赤くする。

「べ、別に可愛いなんて、そんなことは」

「あら、オリガ様はとってもお可愛いですよ? アレクセイ様がオリガ様のことを気に入るはずです。だってこんなにお可愛いんですもの」

 姉は赤い顔で黙り込んでいる。

 噴水の水音に混じって、鳥のさえずる声が聞こえてくる。


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