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姉と弟  作者: 深江 碧
十一章 あなたに出来ること、わたしに出来ること
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あなたに出来ること、わたしに出来ること5

 姉は杖を手にメイドに案内され、屋敷の渡り廊下を通ってガラス造りの温室までやって来た。

 温室へ足を踏み入れた瞬間、穏やかな温かさと緑の匂いが鼻をつく。

 花や木々の甘い匂いが漂って来る。

「ここは?」

 目の見えない姉は様子を伺おうと、辺りを見回す。

 そばにいたメイドが答える。

「この屋敷は財閥の管理する屋敷の中でも立派な温室があることで有名です。アレクセイ様がこの屋敷に来る前は、屋敷の管理人が管理していました。アレクセイ様がこの屋敷にいらしてからは、この温室もアレクセイ様の管理の下に置かれていますが、それまでの管理人が精魂込めて管理してきた自慢の温室です。温室の暖房設備も完璧で、年中温室内では花が咲き乱れているのですよ?」

 メイドは穏やかな口調で生き生きと話す。

 その声は少しばかり得意げだ。

「ここの温度は常に一定で、ここでは五十種類近くの植物や花が育てられています。それに少ない種類ですが、動物や鳥も温室内に放してあります」

 姉は素直に感心する。

 見えない目で辺りを見回す。

「すごいですね。今は冬なのに、この中はまるで春のように温かいなんて」

 朝の光の差し込む温室の天井を見上げている。

 周囲には温かい空気が満ち、遠くから水の流れる音が聞こえてくる。

 静かに感動している姉の様子を見て、メイドは満足そうにうなずく。

「よかったらご案内いたしますわ。足場が悪い場所があるので、お手を拝借してもよろしいですか?」

 姉はうなずき、手を差し出す。

「よろしくお願いいたします」

 メイドは姉の手を引き、木々の生い茂った温室の中を案内する。

 少し歩くと緑の木々が途切れ、少し開けた場所に出る。

「ここでは様々な品種のバラを育てています。今は本来バラの咲く時期ではないのですが、ほんの少しですがバラが咲いています」

 姉の目には見えなかったが、開けた場所ではバラの枝がアーチの形を作っている。

 手入れのためにあちこち剪定されていたが、ちらほらと色とりどりのバラの花が咲いている。

 メイドは姉を咲いているバラのそばに案内する。

 バラの良い香りが、目の見えない姉の鼻をくすぐる。

「本当ですね。バラの甘い香りがします。良い匂い」

「この品種は、ブルームーンという寒さに強いバラなのですよ。オリガ様がこちらにいらっしゃってから、珍しく花をつけたのですよ」

 姉はメイドを振り返る。

「そうなのですか。これは珍しいバラなのですか?」

 見えない目でバラを見つめる。

 不思議と穏やかな気持ちになってくる。

 自然に笑みがこぼれる。

「オリガ様には、他にも見せたいものがあります。次はこちらへどうぞ」

 メイドに案内され、姉はさらに小道を歩いていく。

 細い道を歩き、また開けた場所に出る。

「ここでは百合を育てています。庭師が温度を調節して、苦労して花を咲かせたのですよ。どうぞ近くでご覧ください。その香りをかいでみて下さい」

「百合……」

 メイドに勧められ、姉はおぼつかない足取りで歩き出す。

 百合の花咲く小道を進む。

 ふとある種類の百合の群落の前で立ち止まる。

 その前にしゃがみ込む。

「この百合」

 姉の様子に気付いたメイドが説明する。

「その百合は、高地にしか咲かない百合です。アレクセイ様がわざわざ球根を取り寄せ、庭師に頼んで栽培させたのですよ」

 姉はその百合の前から動かない。

 じっと考え込んでしまう。

(この百合の香り、以前にもどこかで嗅いだことがあるわ。でも、どこだったかしら?)

 高地の百合の香りには、とても懐かしい感じがする。

 その香りをきっかけに、姉の頭に過去の思い出がよみがえる。

 それは昔、家族で毎年夏に避暑で行っていた高原で嗅いだ匂いと同じだった。

「そう言えば、アレクセイ様はあなたのことを、その百合と同じで高地に咲く気高い白百合のようだ、とおっしゃっていましたよ。社交界であなたはそう呼ばれていると、よくおっしゃっていました」

 メイドがくすくすと笑いながら言い添える。

「高地に咲く気高い白百合」

 姉はそれが自分を表している言葉とは、とても思えなかった。

 今の姉は目も見えず、心も弱ってしまい、とても気高い白百合のようには見えないだろう。

 姉は恥ずかしさから顔を赤らめる。

「そ、そんな、わたしを白百合だなんて、とてもそんなことはありません」

 首を横に振る。

 メイドは少し困った声で答える。

「でも、アレクセイ様は夜会から帰ると、決まってあなたのことをそう例えていました。恐れ多いことですが、私にはその言葉の意味が少しわかるような気がします。少しの間ですが、あなたのお傍について、あなたのお世話をさせていただいて、あなたが白百合と呼ばれる意味がわかるような気がしました。やはりあなたは白百合と呼ばれるにふさわしいお方ですわ」

 姉はますます恐縮してしまう。

「た、確かに、社交界ではそう呼ばれていたこともあります。わたしとて、父と母に恥をかかせないように必死でそう振る舞おうとしていただけです。でも今のわたしはとてもそんな風に呼ばれる資格はありません。白百合だなんて、とてもそんなことは」

 言いかけて、姉ははっとする。

 家族で高原に咲く白百合を見に行った時の出来事を思い出す。

 その時、母親は社交界での陰口に耐え切れず、心が弱っていた。

 幼かった姉は母の分まで社交界に出て、客の相手をしなければならなかった。

 姉は最初、どう客に接すればいいのかわからなかった。

 試行錯誤で、悩む日々が続いた。

 ある時、床に臥した母親が朝露に濡れる高原の白百合を例えにして、姉に語った。

「高嶺に咲く白百合のように振る舞いなさい。凛として気高く、優しく穏やかに、強い気持ちを胸に秘めて」

 母親は穏やかな声で姉にそう諭した。

「本当は私があなたの代わりに社交界に出なければいけないのだけど。ごめんなさい、オリガ。あなたにわたしの代わりをさせてしまって」

 そして悲しげな声で姉に謝った。

 姉はそんな気弱な母に、精一杯の笑顔を見せる。

「ううん、わたしは大丈夫よ。心配してくれてありがとう、母さん」

 姉は母の言葉を胸に抱いて、厳しい社交界で自分の居場所を守って来た。

 凛として気高く、そして優しさと穏やかさを秘めて。

 何度も落ち込みそうになりながら、これまでくじけずに来たのは、その言葉があったからだ。

 優しい両親の支えがあったからだ。

(父さん、母さん)

 姉の心に懐かしい気持ちが込み上げてくる。

 熱い涙が頬を伝う。

 ぼろぼろと涙をこぼす姉を見て、メイドが慌てたように声を掛ける。

「お、オリガ様? どうなされたのですか?」

 姉は首を横に振る。

「いいえ、あなたのせいではないのです。ただ、昔のことを思い出して……」

 姉は百合の前にしゃがみ込んでいた。

 涙は止めどなくこぼれ、姉の胸に懐かしい家族の思い出がよみがえる。

(優しかった、父さんと母さん。でも、二人はもういない)

 両親は事故で命を落とし、唯一生きている家族の弟とは離れ離れになってしまった。

(わたしは一人で生きて行かなければいけない)

 昔の思い出が姉の胸に津波のように押し寄せ、姉は声を上げて泣いた。

(父さん、母さん、どうしてわたしを置いて行ってしまったの? どうして?)

 姉は心の中で今は亡き両親に問い掛ける。

 両親の最期さえ見とれなかった。

 最期に二人のそばにいられなかった。

 二人を守れなかったこと、自分だけ生き残ってしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。

 事故に遭って以来、姉はようやく涙を流してまともに泣くことが出来た。

 胸の奥につかえていた深い悲しみを、ようやく声に出すことが出来た。

 抑えていた多くの感情を、ようやく解き放つことが出来た。

 それはどこか無理をしてきた姉の気持ちを和らげた。

 前向きに考えるきっかけを与えた。

(デニス、あなたに会いたいよ。今、どこにいるの? 元気でいるの?)

 涙は後から後から流れ出て、姉は声を上げて泣き続けた。

 その涙は慈雨のように姉の心を解きほぐし、ずっと心の底に沈んでいた深い悲しみを洗い流した。

 涙を流すことによって、いくらか姉の不安を取り除いた。

 姉は温室の百合の花のそばで泣きじゃくり、声が枯れるまでそこにうずまっていた。

 百合の香りに包まれて、ずっと泣き続けていた。

 どれくらい経ったのか、遠慮がちにメイドが声を掛ける。

「オリガ様、お部屋に戻りましょう。ずっとこのままでおられては、また風邪がぶり返しますよ。アレクセイ様が心配されますよ?」

 ようやく涙の跡が乾いた頃、目の見えない姉はメイドに手を引かれ、温室から部屋に戻った。

 部屋に戻った姉は、泣き疲れてそのままベッドに倒れ込んだ。

 再び体調を崩してしまい、しばらくの休養が必要となった。

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