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姉と弟  作者: 深江 碧
十一章 あなたに出来ること、わたしに出来ること
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あなたに出来ること、わたしに出来ること2

 姉が眠ってから、たらいの水を取り換えに行っていたメイドが部屋に戻って来た。

 水の入った小ぶりのたらいをテーブルの上に置く。

 姉の額にのせてある白い布を、たらいの水で洗い、取り換える。

 間を置かず、仕事に区切りをつけた次男が姉の部屋を訪ねて来た。

 メイドはうやうやしく次男に頭を下げる。

 次男は姉の眠るベッドのそばに立って、その寝顔を覗き込む。

「オリガの様子はどうだい?」

 姉の病状を聞いてくる。

 メイドは医者の診察結果を報告する。

「はい、体力が落ちている上に、熱が下がらないこともあって、未だに床から起きられる状態ではありません。お医者様にいただいたお薬を飲ませてはいるのですが、熱は数日続くそうです。しかししばらくは安静にする必要があるものの、心配するには及ばないと聞いております。安静にしていれば命に関わることではない、と」

 それを聞いて、次男はにっこりと笑う。

「そうか。それなら良かった」

 次男はベッドのそばの椅子に腰かける。

 深緑色の瞳を細め、赤い顔をして苦しそうに眠っている姉の顔を見つめている。

 そんな時、ふと視界の隅で動くものがあった。

「ん?」

 それが気になって、次男は椅子から立ち上がる。

 厚いカーテンのそばまで歩いていく。

 カーテンが微かに動いたような気がする。

 思い切ってカーテンをめくると、窓が微かに開き、外から冷たい風が吹き込んでいた。

 次男は窓のガラスをじっと見下し、深緑の瞳を細める。

 窓ガラスを押し開け、ベランダを確認する。

 ベランダから夜の闇を見回す。

 そこには闇の中にぼんやりと浮かび上がる白い雪の世界が広がるばかりだった。

 人の気配はしない。動くものはどこにも見えない。

 冷たい夜風が次男の金色の髪を揺らしていく。

 次男はしばらくの間考える素振りをして、ベランダから部屋に戻る。

 窓の鍵をしっかりかけ直す。

 次男の行動を不審に思ったメイドが声を掛けてくる。

「どうされたのですか、アレクセイ様。何かありましたか?」

 次男は厚いカーテンを元のように整え、ベッドのそばにいるメイドを振り返る。

「いや、ついさっきこの部屋に侵入者がいたみたいだね」

「侵入者?」

 メイドの顔色がさっと変わる。

 ベッドで眠っている姉に視線を向ける。

「まさか、オリガ様の命を狙って」

 メイドは青い顔で姉のベッドに近付き、その容体を確認する。

 次男は窓から離れ、部屋の中で変わったところが無いかをぐるりと見回す。

「侵入者の目的はわからない。他に部屋に変わったところは見られないみたいだけど、念のため、医者を呼んでオリガの体調を診てもらおう。それと、オリガのことが侵入者に気付かれた以上、この屋敷は今夜中に引き払う。今夜中のうちに荷物をまとめて、オリガと一緒に移動できる準備をしてくれ」

 メイドは青い顔でうなずく。

「は、はい、アレクセイ様」

 うやうやしく頭を下げる。

 その騒ぎが聞こえたのか、ベッドで眠っていた姉が身じろぎする。

「どう、されたのですか?」

 上半身をゆっくりと起こし、擦れた声でささやく。

「オリガ様」

 メイドは喜びと不安の入り混じった声で叫ぶ。

「オリガ様、お体の方は大丈夫ですか? 侵入者に何かされませんでしたか?」

 メイドは姉の方に身を乗り出して尋ねる。

「え?」

 姉は目覚めたばかりで戸惑っているようだった。

 不安な顔で辺りを見回す。

「オリガ」

 取り乱すメイドに変わって、次男はベッドに近付き姉に声を掛ける。

「体調はどうだい? どこか特別痛いところはないかい?」

 穏やかな声で尋ねる。

 姉は訳が分からないながらも、小さな声で答える。

「い、いえ、熱があるだけで、特には」

 次男の背後に立つメイドは、姉の言葉を聞いて絨毯の上にへたり込む。

「良かった。オリガ様がご無事で良かった」

 両手で口元を覆い、泣き出しそうな表情をしている。

 次男も顔には出さないが、ほっと安堵の息を吐き出す。

 事情を知らない姉だけは、困ったように二人の様子を見回している。

「あ、あの、わたしのことで、何かあったのですか?」

 次男は首を横に振る。

「いや、大したことじゃないよ。それよりも、この屋敷を引き払わないといけない事情が出来てね。病気のオリガには辛いかもしれないけれど、車で長時間移動しなければならないんだ。起きられるかい?」

 それを聞いて、姉は胸に手を当てて強い口調ではっきりと口にする。

「わたしのことでしたら、大丈夫です。お医者様もただの風邪だと仰っていましたし、アレクセイ様に心配していただくには及びませんわ」

 姉は精一杯の笑顔で応じる。

 熱のある赤い顔で二人に笑いかける。

「愚問だったね。これは失礼した」

 次男は姉の頭に手を置く。

 その黒髪を撫でる。

「でも、無理は禁物だよ。オリガはまだ風邪も治っていないし、体力も戻っていないだろうからね。辛かったら辛い、と素直に言っていいんだよ?」

 次男は小さな子どもに諭すように言う。

「わ、わたしは、そんなこと」

 姉は熱で赤い顔をますます真っ赤にする。

 大人しく撫でられながら、微かにうつむく。

「こ、子ども扱い、しないで下さい」

 姉は口を引き結び、頬を膨らませる。

 次男は手を引っ込める。

「おや、これは失礼いたしました。オリガ嬢」

 うやうやしく頭を下げる。

 目の見えない姉は、その次男の態度に不満そうな顔で応じる。

「わたしをからかって、楽しいですか? アレクセイ様」

 姉がそう尋ねると、次男はかしこまって言う。

「社交界で白百合、と讃えられる貴女をからかうなんて、そんな恐れ多いことはとてもとても」

 姉は赤い顔でそっぽを向く。

「やっぱり、わたしをからかっているじゃないですか」

 小声でひっそりとつぶやき、小さな溜息を吐く。

 姉は見えない目を窓の方に向ける。

 窓の外の風の音に耳を澄ませる。

(あれは、夢だったのかしら? 夢の中で、あの子の、デニスの声が聞こえたような気がしたわ)

 言葉はよく聞き取れなかったが、弟の声を聞いてひと時姉の心は懐かしさで満たされた。

 唯一の家族である弟に無性に会いたくなった。

(あの子は無事に逃げ切れたのかしら。元気でやっているかしら。病気や怪我は大丈夫かしら)

 姉は黒い髪に指で触れる。

(あの子に、また会えるのかしら。家族としてあの子と一緒に、また穏やかに暮らしていけるといいのだけど)

 姉は熱でぼんやりする頭を軽く降り、胸の不安を振り払おうとしたが、駄目だった。

(あの子に、会いたい)

 なぜだか、弟ともう会えないような気がして仕方がなかった。

 弟の安否も、居場所さえも知らず、姉は不安に押しつぶされそうだった。

 気持ちの弱った姉には、心の許せる弟に傍についていて欲しかったが、それも叶わなかった。

 いくら次男に親切にされても、病で弱った姉の心は孤独で満たされていた。

 その時は、唯一の家族である弟以外に、姉の孤独を癒すことは出来なかった。

 夜のうちに荷物がまとめられ、姉と次男の一行はその屋敷から出て行った。

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