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空白のファートゥム  作者: 小沼芙蓉
第一章
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第一章 07 『知らないクラウン』

『第一章 ――道化師の問いに答えよ』


白い文字列が舞台中央へ浮かび上がる。劇場の照明がゆっくりと、まるで世界の境界線が徐々に溶け落ちていくかのように滑らかなグラデーションを描いて落ちていき、それに伴って周囲の空気があらかじめ限界まで張り詰められた弦のようにピンと凝固した。


そして、広大な舞台の中央。一本の冷徹な青白いスポットライトが、まるで天から降りてきた槍のように垂直に床を撃ち抜いたその直下。音もなく、そこには一人の“道化師”が佇んでいた。


白黒の仮面。その意匠は極めて歪であり、片方の口元だけが人間の骨格を無視した角度で異様に吊り上がっている。身に纏うのは、現実の調和を拒絶するような原色を散りばめた派手な衣装。だが、その滑稽極まりない輪郭を内側から支える彼の佇まいには、胸が締め付けられるような、妙な寂しさが色濃く漂っていた。それはまるで、遠い過去のどこかで、誰かを笑わせるための「笑い方」そのものを忘れてしまった、哀れな道化の末路のようだった。


『――問おう』


声が響く。劇場の音響システムを介さず、空間の分子そのものを直接振動させて鼓膜へと滑り込んでくるような、男なのか女なのか、あるいは老人なのか幼子なのかすらも判別がつかない、ひどく不思議で透明な声だった。


『人は何故、“役”を求める?』


その無機質でありながら強烈な質量を持った問いかけが空間を満たした瞬間、舞台上の虚空へ、水色の燐光を放ちながらいくつかの選択肢が半透明のパネルとなって浮かび上がる。


【A:誰かに認められたいから】

【B:孤独を隠すため】

【C:自分が空っぽだから】

【D:人を笑顔にしたいから】


「……最初から、本質を突きに一速(トップギア)で来たな」


俺は観客席の冷たい背もたれに身体を預けたまま、細めた瞳の奥でその四つのテキストを冷徹に凝視し、小さく呟いた。


この遺跡、難易度EXに指定される【劇場】における最大の、そして最も致命的な特徴。それは、肉体の強度や物理的なパラメータの暴力を競う『戦闘』ではない。この空間が紡ぎ出す“物語への、純然たる理解度”だ。もしここでシステムへの回答を誤れば、レベル1の貧弱なアバター(肉体)など一瞬で分子レベルにまで消滅させるような、即死級の防衛トラップが容赦なく虚空から飛んでくる。


しかも、このギミックをさらに悪辣なものにしているのは、“正解が必ずしも一つとは限らない”という流動的な仕様にある。道化師がその時々に抱いていた、泥のように濁った感情。歩んできた、救いのない人生の軌跡。そして、彼が最期まで捨て切れなかった歪な価値観。それらを完全に読み解き、彼の心の同期(シンクロ)を果たさなければ、正しい選択肢を選ぶことはできない。


そして、今まさに提示されているこの『第一章』において、最も重要となるコンテキスト(背景)は何か。それは、物語の初期衝動――“道化師が、その歩みの最初期において、純粋に何を願っていたか”という一点に尽きる。


彼の能力が周囲から恐れられ、迫害の対象となる前。まだ、世界が彼を温かく迎え入れていた時代。その時、彼の心の底に灯っていた光の形。


答えは、初めから決まっている。


「Dだ」


俺がそう静かに呟いた瞬間、虚空に浮かんでいた【D】の文字列が、まるで肯定の合図を示すようにパッと淡い青色の光を放った。


次の瞬間。


パァン――!!


耳を劈くほどの、凄まじい熱量を持った拍手の音が、劇場中の全方位から一斉に響き渡った。数千、数万の空席が並ぶこの無人の空間であるはずなのに、目に見えない無数の観客が立ち上がり、惜しみない喝采を舞台の上の演者、そして正しい答えを導き出した俺に向けて送り届けているかのような、圧倒的な音の壁だった。


『――正解』


拍手の嵐の中、舞台中央の道化師がゆっくりと口元を歪め、笑みを浮かべた。だが、その仮面の奥にあるはずの笑顔は、すでにどこか取り返しのつかないレベルで壊れてしまっている。


『余は、笑顔が好きだった』

『だから、演じたのだ』

『英雄も、悪党も、この世界を統べる王でさえも』

『皆がそれを望み、喜んでくれるというのなら、余は何にだってなった』


道化師が、派手な靴の先で床を叩くようにして、ゆっくりと一歩前へ踏み出す。その爪先が赤黒い絨毯に触れた瞬間、劇場の景色そのものが、まるで波紋が広がるように急速に変色し、全く別の位相へと塗り替わっていった。


暗転。そして、瞬きをするほどの刹那ののち、再び強烈な光が空間に灯る。


そこに現れたのは、現実に存在するどんな歴史的建造物をも遥かに凌駕する、絢爛豪華で巨大な王城の谒見の間だった。足元には深く沈み込むような上質な赤い絨毯が敷き詰められ、その先には黄金に輝く巨大な玉座、そして整然と並び立つ重装の兵士達の姿がある。


その中央に立っているのは、まだ衣装に汚れもなく、仮面の色彩も鮮やかだった、若い頃の道化師の姿だ。彼の周囲を取り囲むようにして、華美なドレスを纏った貴族や、粗末な服を着た民衆達が、一様に顔を綻ばせて笑っている。楽しそうに。幸せそうに。何の屈託もなく、その存在を称えるように。


まるで、彼が本当に世界から、その国から心から愛されていた、黄金の時代をそのまま切り取ったかのような幻影だった。


だが。その眩いばかりの光の光景の端、きらびやかな柱の影に、たった一人だけ。一切の笑みを浮かべることなく、凍りついたような瞳でその光景を冷徹に見下ろしている男がいた。


漆黒の法衣に身を包んだ、国王の側近。その男の瞳の奥底に揺らめく光だけが、人間の内面に巣食う、底の知れない悪意そのもののように異様に冷たかった。


「……ここから、始まるわけだな」


俺は座席の肘掛けを静かに握り締めながら、小さく呟いた。


第一章の役割は、あくまで“道化師が確かに愛されていたという前提の提示”。システムは親切にも、かつての平和な記憶を最初に見せてくる。そして、この美しく儚い調和が内部から崩壊していく第二章から、この遺跡【劇場】の物語は本格的にその狂気の牙を剥き始めるのだ。


──────────────────


─『第二章を開始します』─


不意に、頭上から告げられた無機質なアナウンスとともに、王城の幻影が一瞬にして霧散し、劇場の照明が再び深い闇へと落ちていく。


劇場全体が、ギィ……と、まるで巨大な生物の背骨が軋むかのような、重苦しい音を立てて微かに震動した。まるで、この空間そのものが歪んだ意志を持ち、悍ましい息を吐き出しているかのような、不快な圧迫感が肌を刺す。


すると、舞台の上の虚空に、新たな一冊の本がふわりと出現した。今度は最初のように三冊ではなく、一冊だけ。だが、その装丁は第一章のそれよりも明らかに厚みを増しており、何よりその表紙には、色彩を完全に失ったかのような、不吉な純黒の仮面が描かれていた。


俺は静かに椅子から立ち上がり、舞台の手前まで歩みを進めると、浮遊するその本の黒い表紙に手をかけ、ページを開いた。


──────────────────


人々は道化師を愛していた。

だが、その愛が深まれば深まるほどに、彼らは同時に、その異質さを“恐れて”もいたのだ。


何者にでもなれるという、神の如き祝福。

それは裏を返せば、この世界に存在する“誰にでも、いつの間にか入れ替わってしまえる”という、恐怖の証明に他ならない。


ある日。国王の側近は、集まった民衆の心の隙間に、毒を流し込むようにして静かに問いかけた。

『今、玉座の上で王として振る舞っているその者が、本当に我らの王だと、お前達の目でどうやって証明できるのだ?』


その、たった一言の疑念の種子は、瞬く間に国中に黒い根を張り、巨大な疑心暗鬼を生み出していった。

やがて人々は、隣人の顔を見るたびに、本気で考え始めるようになる。

“今、目の前で笑っているこの人間は、本当に、本物のアナタなのか?”


そうして、一度芽生えた些細な不信は、やがて誰の手にも負えない狂気的な恐怖へと、その姿を変貌させていったのだ。


──────────────────


パタン、と静かな音を立てて本が閉じられ、光の粒子となって消える。


同時に、舞台の景色が、まるで硝子がひび割れるような音を伴って再び急激に変化していった。


現れたのは、先ほどまでの豪華な谒見の間ではなく、無数の影がひしめき合う、奇妙な晩餐会の席。

そこに並ぶ観客席の影、王族、そして周囲を埋め尽くす民衆。その全員の顔面に、一切の例外なく、不気味な『仮面』が張り付いていた。

笑っているのか、泣いているのかも分からない、白い仮面。光を全て吸収するような、黒い仮面。ある者は口元を裂けるほどに笑わせ、またある者は血の涙を流すような意匠の仮面を身につけている。

だが、そのどれもに共通しているのは――誰一人として、その内側にあるはずの“素顔”が、外側から全く見えないということだ。


「……来るぞ。システムの駆動(アクティベート)だ」


俺がそう身構えた、その刹那だった。


ガコンッ!!


舞台の中央の床が、強固なロックを解除されたように左右へと大きく開き、その暗黒の底から、粘り気のある空気とともにゆっくりと『何か』が這い出してきた。


輪郭は人間によく似た、細長い四肢を持つ人型。だが、その頭部には目も、鼻も、口も存在しない。完全な肉ののっぺらぼう。その代わりに、顔があるべき中心の空間に、ただ一枚の『白い仮面』だけが、まるで磁力で固定されているかのように不気味に浮かんでいた。


その白い仮面が、ぎちぎちと不自然な関節音を立てながら、まっすぐにこちらを向く。


そして。


『お前は、本当に“お前”か?』


地響きのような、重苦しい低い声が劇場全体に鳴り響いた。


その瞬間、俺の視界の右隅、網膜の最前面へと、これまでとは明らかに波長の異なる、血のような赤色をしたシステム表示が滑り込んでくる。


─『第二章:仮面達の晩餐』─


─『条件:己を証明せよ』─


「……やっぱり、ここで戦闘の規約(ルール)が入るよな!」


俺は網膜に映る文字を読み切るよりも早く、染み付いたゲーマーとしての本能に従って、全精力を両脚へと注ぎ込み、即座に真後ろへと身体を跳ね上がらせた。


その直後だった。


ドンッ!!


耳を聾するような爆音とともに、さっきまで俺の靴底が触れていた舞台の床へ、あの顔のない怪物――『無貌の観衆(ノーム)』の細長い拳が、信じられない質量を伴って叩きつけられた。

強固なはずの劇場の床が、まるで乾いたクッキーのように派手に粉砕され、赤黒い絨毯の破片と木屑が四方へと激しく飛び散っていく。


威力高っ!? いや待て、今の俺のステータスはさっき確認した通り、HPがわずか『4』しかない正真正銘のレベル1なんだぞ!? あの一撃の掠り傷(かすりきず)一つでも掠めれば、その瞬間に俺の肉体はデータごと木っ端微塵に破壊されてゲームオーバーだ。


だが。背筋を駆け抜けた圧倒的な死の恐怖よりも先に、俺の脳内クロックは、この極限状態をクリアするための最適な解法(コマンド)を、冷静に、かつ正確に選び出していた。


「――『略式瞬歩(りゃくしきしゅんぽ)』」


呪文を唱えるように、静かにその技能(スキル)の名前を口に馴染ませる。


その瞬間、世界の遠近感が一瞬にして狂ったように歪み、視界全体が大きくぶれた。

摩擦という物理法則を完全に無視し、次の一歩を踏み出した時――俺の身体は、物理的な移動のプロセスを全て省略して、元いた場所から数メートル後方の安全圏へと、文字通り“位置情報の上書き(テレポート)”を果たしていた。


「っ……、はぁ……っ!」


瞬間移動の完了と同時に、生身の肺が裏返るような激しい軋みを上げ、両脚の筋肉に、未だかつて経験したことのない強烈な反動(G)がのしかかってくる。視界の端では、1mごとに生成されるクールタイムのカウンターが不気味に駆動を始めていた。


だが、確かに俺は生きて、怪物の射程外へと脱出することに成功したのだ。


「本当に……現実の空間を飛び越えて、瞬間移動してやがる……!」


荒い呼吸を繰り返しながら、俺は思わず自身の両手を見つめ、驚愕とともに息を呑んだ。

これは、液晶画面の向こう側のアバターを操作しているのではない。俺自身の肉体が、システムという世界の新しい規約に介入し、本物の“力”を行使しているという、動かしようのない現実の感覚。


しかし、戦況は一瞬の思考の猶予すら与えてはくれない。


目の前の怪物は、床に深くめり込ませていた腕をゆっくりと引き抜くと、再びその不気味な白い仮面を、正確に俺の座標へと向けてきた。

仮面の裏側。そこにある、何も存在しない純然たる暗闇の空洞が、じっと俺の魂の核を射抜くように見つめてくる。


それは、言葉を介さない暴力の圧力を伴って。

“お前は、一体誰だ”と、世界の底から執拗に問いかけてくるかのようだった

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