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中村君シリーズ④『初詣で、変なのを拾った』

掲載日:2026/04/17

第1話 初詣で、変なのを拾った


「残り一分!」


テレビの向こうで、やけに元気な声が響く。


(待ってくれ)


中村はそこで急に落ち着かなくなった。


(やり残したこと、まだあるだろ)

(“今年の汚れは今年のうちに”って言うだろ)

(うわ、トイレ掃除やってない)


「五!」

「四!」


(今から間に合うか?)

(いや無理だろ)

(でも気持ちの問題では――)


「三!」

「二!」

「一!」


「ハッピーニューイヤー!」


こうして中村は、新年を迎えた。

トイレに若干の心残りを残したまま。


年が明けたからといって、人は急に生まれ変わったりしない。

少なくとも中村は、元日の朝からそれをよく知っていた。


実家で食べすぎた雑煮の余韻を抱えたまま、ぼんやりテレビを見ていた。

親に「ちゃんと食べてるの?」と聞かれ、「まあ、それなりに」と曖昧に返す。


「私たちはもう初詣行ってきたから、あんたも早く行ってきなさい」


母がみかんをむきながら言った。


「一年の計は元旦にありっていうでしょ」

「このままだと彼女もできなさそうなんだから、ちゃんと神様にお願いしてきなさい」


(痛いところを突くな)

(ミッションが追加された)


そうして中村は、午前のうちに初詣へ向かった。


新年一発目から、だいぶ日本人的な流れだった。


神社は思ったより混んでいた。


鳥居をくぐる。

人の流れに乗る。

少しずつ進む。


前の家族連れは、子どもがやたら元気だった。

後ろのカップルは、すでに今年がうまくいきそうな空気を出していた。

中村だけが、年明け早々そこまでの勢いを持てずにいた。


寒い。

人が多い。

並ぶ。

まだ願ってもいないのに、少し帰りたかった。


「……初詣って、こんな修行だったっけ」


誰に言うでもなくつぶやく。


前の方では、鈴の音が鳴っていた。

賽銭箱の前に立つ人たちが、真面目な顔で手を合わせている。


願いごと、か。


何を願うか、少しだけ考えた。


金運。

恋愛運。

出世。


どれも、なくて困るものではない。

だが今の中村にとっては、どれも少し遠かった。


中村の願いは、もっと地味だった。


今年は、仕事があんまり荒れませんように。

できれば、昼休みがちゃんと昼休みとして使えますように。

あと、意味不明な会議が少し減りますように。


そこまで考えたところで、白石さんの笑顔が一瞬ちらついた。


いや待て、と中村は思う。

新年一発目から願いごとが多い。

欲張ると、たぶん良くない。


少しだけ情けなくなったが、今さらもっとキラキラした願いに変えるのも嘘っぽかった。


結局、賽銭を入れて、手を合わせる。


今年は少しだけ、平和でありますように。


それだけ願った。


手を下ろす。


その瞬間だった。


「よし、聞き届けた!」


真横から、妙に元気な声がした。


中村は振り向いた。


誰もいない。


いや、正確には、人はいた。

いたが、今の声を出しそうな人物はいなかった。

近くにいたのは、願いを終えて静かに頭を下げているおじいさんと、焼きそばの屋台に向かって走り出した子どもくらいだ。


(……疲れてんのかな)


年始から幻聴は嫌だった。


中村はひとまず、気にしないことにした。


お守り売り場の横を通る。

おみくじの列を横目に見る。

人の流れに押されるまま、神社の外へ出る。


冷たい空気が少し気持ちよかった。


境内のにぎやかさを抜けると、ようやく人の密度が下がる。

屋台のソースの匂いも、遠くなった。


中村はコートのポケットに手を入れた。


実家に戻れば、夜はまた食べろ食べろと言われるだろう。

それまでのあいだ、少し散歩してから帰ってもいいかもしれない。


そう思って歩き出しかけた、その足元で。


「中村!」


声がした。


今度は、はっきり聞こえた。


しかも名前を呼ばれた。


「……は?」


足元を見る。


白い犬がいた。


小さめの犬だった。

柴犬くらいの大きさ。

毛は白く、しっぽだけ妙にふわふわしていて、首元にはなぜか金色っぽい小さな札がぶら下がっている。


犬だった。


ただし、目が合った瞬間に分かった。


普通の犬ではない。


顔が、妙に偉そうだった。


「ようやく見たな!」


口は動いていない。


なのに、声だけが頭の中に響いた。


中村は三秒ほど固まった。


それから、静かに周りを見た。


誰も反応していない。

前を歩いている人も、屋台帰りの親子も、この白い犬にまったく注意を向けていない。


「……えっ」


「遅い!」


白い犬は胸を張った。

いや、犬なのに、胸を張ったように見えた。


「お前、いま俺を無視しかけただろ!」

「いや、だって犬が」

「犬ではない!」

「いや犬だろ」

「見習いだ!」

「何の」

「福の神の!」


中村は黙った。


新年から、だいぶ面倒なものを引き当てた気がした。


白い犬――福の神見習いと名乗るそれは、前足をひとつ上げた。

なぜかポーズに自信があった。


「俺の名前はフク!」

「雑だな」

「覚えやすさ重視だ!」

「そこだけ妙に現実的だな」


フクは気にした様子もなく、しっぽをぶんと振った。


「中村! 朗報だ!」

「嫌な予感しかしない」

「お前を幸福にしてやる!」

「いらない」

「遠慮するな!」

「遠慮じゃなくて拒否なんだよ」


中村は頭を押さえた。


初詣のあとに白い犬がついてくる人生設計は聞いていない。


しかも、念話でだけ話してくるせいで、見た目はただ犬を見て立ち止まっている人になっている。

外から見たらかなり危ない。


中村は小声で言った。


「ちょっと待て。なんで俺なんだよ」

「お前が願ったからだ!」

「願ってない」

「願った!」

「いや、もっと平和にっていうか」

「だから来た!」

「どういう理屈だよ」

「俺の修行にちょうどいい!」

「お前の都合じゃねえか!」


「俺は感動したんだワン!」

「みんなは、仕事がうまくいきますように、とか」

「健康でいられますように、とか」

「好かれたい、受かりたい、当たりたい、そういう感じだった!」


「けどお前だけは違った!」

「平和に、しかも少しだけと来た!」

「欲がないくせに、妙に切実だった!」


「その瞬間、俺のハートにびびっと来たワン!」


「俺は……呼んでないぞ」


フクはどや顔みたいな顔をした。


犬なのに、腹立たしかった。


「中村、お前をリッチにしてやる」

「願いの方向性が急に雑だな」

「その願い、お安い御用だワン!」

「いや、さっきから人の話聞いてる?」

「聞いてる! だが、まずは金運だ! わかりやすいからな!」

「発想が新人営業なんだよ」


フクは一瞬だけ首をかしげた。


「営業とは?」

「お前に説明したくない類のもの」


そのまま歩き出す。


当然、フクはついてきた。


「待て、中村!」

「来るな」

「福がついてきてるんだぞ!」

「不安の方が強いんだよ」


砂利の音がじゃりっと鳴る。

白い犬は器用に人の足のあいだをすり抜けながら、ぴたりと中村の横を歩いた。


しかも周りの人間は、やはり誰も気づいていないらしかった。


「ほんとに俺にしか見えてないのか」

「そうだ!」

「最悪だな」

「最高だろ!」

「どういう人生経験を積んだら、これを最高だと思えるんだよ」


神社の外へ出る。

人通りはまだ多い。

だが、境内の中よりは少しましだった。


中村は深く息を吐いた。


「……で、何すんの」

「福を与える!」

「雑だなあ」

「まずは手始めに、分かりやすく幸運を入れる!」

「やめろ」

「安心しろ! 俺は見習いだが、実力はある!」

「その“見習いだが”の時点で安心できないんだよ」


フクは鼻息だけは立派だった。


「よし、あそこだ!」

「どこ」

「自販機!」


中村は足を止めた。


神社の外れに、古い自販機があった。

缶コーヒーとお茶が並んでいる、ごく普通のやつだ。


フクが前足を掲げる。


「見ていろ。お前に当たりを出してやる」

「いや、当たりつき自販機でもないだろ、あれ」

「細かいことは気にするな! 福は気合いだ!」


嫌な予感しかしなかった。


中村が止めるより早く、フクは目を閉じて、うんうんうなり始めた。

犬なのに、やたら偉そうだった。


「集まれ、幸運!」

「やめろ」

「回れ、福運!」

「おい」

「中村の金運、上がれワン!」


自販機が、ぴこん、と鳴った。


ランプが全部点滅した。


次の瞬間。


ガコン、と大きな音がして、商品見本のライトが全部消えた。


沈黙。


冬の神社の外れに、妙な静けさが落ちた。


「……止まった?」

と中村。


フクは目を開けた。


「……あれ?」


自販機には、でかでかと

販売中止

の文字が出ていた。


「おかしいな」

「おかしいじゃないよ!」

「次は大丈夫だワン!」

「一発目で自販機壊す福の神があるか!」


通りすがりの親子が、ちらっと中村を見た。


しまった、と思った時にはもう遅かった。


中村は、自販機に向かってそこそこの熱量でツッコミを入れた男、になっていた。


母親が子どもの肩を軽く抱いて、少し距離を取る。


「……最悪だ」

「案ずるな、中村! これは前兆だ!」

「何の」

「大きな福の前には、小さな揺らぎがある!」

「ただの故障だろ!」


フクはしっぽを振った。


反省の気配が薄い。

かなり薄い。


中村は空を見た。


正月の空は青かった。

腹立たしいくらい、普通に青かった。


「帰っていい?」

「まだ始まったばかりだ!」

「俺はもう終わりたいんだけど」

「中村、安心しろ! 次はちゃんと成功する!」

「その“次”がいちばん怖いんだよ……」


白い犬は、なぜか誇らしげに胸を張った。


中村の今年は、思っていたより早い段階で、少しだけ面倒な方向へ動き始めていた。


フクは先に立って歩き出した。


犬なのに、妙に先導する顔をしていた。

しかも振り返っては、ついてこいと言わんばかりにしっぽを振る。


「来い、中村! 次の福だ!」

「さっきのでだいぶ信用なくしたんだけど」


参道を少し外れると、屋台が並んでいた。

その中のひとつ、くじ引きの屋台の前でフクが止まる。


「次はこれだ!」

「今度は何」

「運試し!」

「いや、そういうのもういいよ」

「福の神見習いがついている状態で引くくじだぞ?」

「その自信、さっきの自販機の後によく出せるな」


「中村、財布!」

「なんで命令口調なんだよ」

「今ここで一等を引けば、お前も俺も気分がいい!」

「お前の都合がでかいんだよなあ……」


屋台のおじさんが笑う。


「兄ちゃん、やる?」

「……まあ、一回だけ」


どうせ外れる。

その方がむしろ平和だ。


くじを引く。

開く。


五等。


「ほら見ろ」

と中村。

「えっ」

とフク。


屋台のおじさんが差し出してきたのは、ポケットティッシュだった。

しかも二個。


「ありがとうございます……」


中村は少しだけ空を見た。


「新年早々、現実的だな」

「おかしいワン……」

「むしろ正常なんだよ」


その時、少し離れたところから小さな泣き声が聞こえた。


見ると、さっき神社の中で見かけた小さな男の子が、母親とはぐれたらしく、その場で泣いていた。

手には途中まで食べたベビーカステラ。

目元はもうだいぶ崩れている。


周りの大人たちは気づいているのに、年始の人混みのせいか、すぐには動けないでいた。


中村も一瞬だけ立ち止まる。


こういう時、どうするのが正解なんだろうと考える、その一瞬がまずい。

その一瞬のせいで、だいたい乗り遅れる。


「中村!」

とフクが言った。

「何」

「出番だ!」

「なんで俺が」

「見ろ! あれは完全に“福待ち”の顔だ!」

「そんな分類あるのかよ」


フクは男の子の方を向き、ぐっと前足に力を入れた。


嫌な予感がした。


「待て。余計なことすんなよ」

「任せろ! 今こそ見習いの真価を見せる!」

「待てって!」


フクはぴょんと飛び出した。


白い体が人の足元をすり抜けて、男の子の前に立つ。

もちろん、誰にも見えていない。

見えていないのに、フクはすごく堂々としていた。


「安心しろ、小僧! 福が来た!」

「だから見えてないんだって……!」


男の子は泣いたまま、ふと足元を見た。


そして次の瞬間、手に持っていたベビーカステラを落とした。


「あっ」

と中村。

「あっ」

とフク。


地面に落ちたカステラを見て、男の子はさらに泣いた。


「うわーん!」

「悪化したじゃねえか!」

「違うワン、これは予定と違うワン!」

「予定どおりに進んだこと一回もないだろ、お前!」


周囲の目がまた少しだけ中村に集まる。

新年の屋台通りで、何もない空間に向かって二回目のツッコミを入れている男になっていた。


「……ほんと勘弁してくれ」


その時だった。


「すみません!」


中村は自分で思っていたより早く、男の子の方へ足を向けていた。


しゃがみこむ。


「大丈夫? お母さん、近くにいる?」

男の子は泣きながら首を振る。

たぶん、わかっていない。

それでも声をかけ続けるしかなかった。


「名前は?」

「……ゆ、ゆうと」

「そっか。ゆうとくん、ちょっと一緒に探そうか」

「う、うん……」


中村は落ちたベビーカステラを見て、それから屋台の方を振り返った。


「すみません、もう一袋ください」

「はいよ」

とおじさん。


買ったベビーカステラを男の子に渡すと、泣き声が少しだけ弱くなった。


「食べる?」

「……うん」


その間に、中村は近くの係員らしい人に声をかける。


「あの、迷子みたいで」

「あ、ありがとうございます。こちらで預かりますね」

「お願いします」


係員がしゃがんで男の子に話しかける。

少しして、遠くから母親らしき人の焦った声がして、ばたばたと駆け寄ってきた。


「ゆうと!」

「おかあさん!」


母親が男の子を抱きしめる。

その顔を見て、ようやく中村は息を吐いた。


「よかった……」

「ありがとうございます、本当に」

「いえ、まあ……」


別に、大したことをしたつもりはない。

ただ、そこにいたから動いただけだ。


そう思った時、足元から念話が飛んできた。


「見たか!」

「……何を」

「これが福だワン!」

「お前、最初に泣かせただろ」

「きっかけを作ったんだワン!」

「最悪の言い換えだな」


フクはなぜか胸を張っていた。


腹は立つ。

かなり立つ。

でも、完全には否定しづらかった。


もしフクが騒がなければ、中村はもう少し離れた場所から見ていただけかもしれない。


そう考えると、少しだけ複雑だった。


屋台通りを抜けて、神社から少し離れた道に出る。

人の声がようやく遠くなる。


中村は歩きながら、ポケットの中のポケットティッシュを指先で押した。


五等の景品。

新年の運試しとしてはだいぶ地味だ。


「なあ」

「なんだ、中村」

「お前の福って、だいたい迷惑だな」

「まだ見習いだからな!」

「そこ堂々と言うんだ」

「だが結果的には感謝された!」

「……まあ、それはそうだけど」


フクは得意げだった。


「ほら見ろ! 中村の今年は上向きだ!」

「お前、ぜんぶ自分の手柄にしようとするな」

「だって今の、かなりよかったワン!」

「自分で泣かせた件は?」

「あれは、ええと……」

「ええとで済ます気か」

「小さな揺らぎだワン」

「便利な言葉覚えたな」


フクはしばらく黙った。

少しだけ耳が下がる。


「……でも、泣かせたのはよくなかったワン」

「お、今ちゃんとしたこと言ったな」

「見習い卒業には反省も必要だワン」

「そこに卒業絡むんだな」


中村は少しだけ笑った。


年明け早々、しゃべる犬に説教しているのはどうかと思う。

どうかと思うが、さっきまでよりはだいぶ普通の気分だった。


空気が少し冷たい。

でも、神社の人混みの中にいた時ほどではない。


「で、お前いつまでついてくるの」

「見習い卒業まで!」

「嫌だなあ」

「安心しろ! 中村に福を与えれば、俺も成長する!」

「またお前の都合なんだよ」

「持ちつ持たれつだワン!」

「俺だけ持たされてる気がするけどな」


フクはしっぽを振った。


「よし、次だ!」

「まだあるのかよ」

「当たり前だ! 福は一日では終わらない!」

「俺の平和な正月は終わったっぽいけどな……」


そうして中村の新年は、思っていたよりずっと騒がしく始まることになった。



第2話 その福、だいたい余計です


翌日からもフクは全開だった。


頼んでもいないのにお年玉運を上げようとして親戚の子どもだけ妙に懐かれ、

近所の犬と仲良くなろうとして本気で吠えられ、

テレビの占いを“修正”しようとしてリモコンの電池を切らした。


フクの些細な失敗は、正月休みのあいだ地味に積もっていった。


まるで、期待した活躍ができない中途半端な社員みたいだった。


もっとも、フクの場合は最初からそこまで期待していないのだが。


正月休み最終日の夜。


中村は歯を磨きながら、洗面所の足元を見た。


白い犬――福の神見習いのフクが、なぜか得意げな顔で座っている。


「はあ……フク、ついてくるなよ」

「どこにだワン!」

「会社にだよ。嫌な予感しかしない」

「大丈夫だワン! 中村の気持ちはもう分かってる! 信じろ!」

「ほんとに大丈夫なんだろうな」

「もちろんだ!」

一拍置いて、フクは胸を張った。

「もうトイレについていくのはやめただろ!」

「そこ改善ポイントだったのかよ……」


不安しか増えなかった。


翌朝。


いつものカフェオレは買った。


コンビニを出て、冷たい空気の中で中村は一度だけ周囲を見渡す。


白い犬はいない。


「……いない」


思わず小さくつぶやく。


頭の上にのしかかっていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。


「よし……」


新年最初の平和。

たぶん小さいが、かなり大事なやつだ。


中村はそのまま会社へ向かった。


会社の入口では、

「あけましておめでとうございます」

「今年もよろしくお願いします」

そんな声があちこちで飛び交っていた。


新年最初のだるい空気を、仕事モードに切り替えるための儀式みたいなものだった。


中村も流れに合わせて、

「おめでとうございます」

「今年もよろしくお願いします」

と返していく。


正月気分は薄い。

でも完全にゼロでもない。

その半端さが、仕事始めはいちばんしんどい。


席に着く。

パソコンを立ち上げる。

メールを開く。


「はい、始まった」


新年一発目の感想としては、だいぶ前向きさに欠けていた。


相沢が後ろから笑う。


「おー、中村。今年も死んだ顔してるな」

「生きてますよ」

「今年もよろしくな」

「よろしくお願いします」

「休み明け一発目からテンション低くない?」

「通常営業です」

「通常営業がそれなの、だいぶ終わってるな」

「そこは見逃してください」


桃花も近くを通りながら笑った。


「中村さん、今年も省エネっすね」

「年始からフル稼働できる人の方が怖いだろ」

「たしかに」

「桃花は元気だな」

「若さなんで」

「便利な言葉だな、それ」


そこへ、やけに通る声が響いた。


「はい、じゃあ朝礼やるぞ」


部長だった。


新年最初の朝礼。

社員たちの空気が、わずかに重くなる。


(始まった)


中村は心の中だけでつぶやいた。


部長は前に立ち、軽く咳払いをした。


「今年の目標は、報連相の徹底だ」

「社会人としては基本だが、まだぬるい」

「もっと徹底しろ」

「小さいことでも共有しろ」

「あと、受け身になるな」


社員の顔には、言葉にしない疲労がうっすら浮かんでいた。


(あなたは報連相してなくない?)

(部長の連絡の方がだいぶ雑じゃん)

(それ個人目標みたいに言うんだ……)


そんな空気が、フロアのあちこちに静かに漂っている。


中村もそれを察したが、この場は聞き流すのが正解だろうと思った。


こういう時間に余計な感情を使うと、午前が削れる。


だからただ、やり過ごそうとした。


その時だった。


「中村! ここアピールチャンスだ!」


頭の中に、聞き慣れたやかましい声が響いた。


(えっ)


中村の表情が、わずかに止まる。


(いるのかよ)


姿は見えない。

だが、声だけははっきりしていた。


「会社運を上げるワン!」

(やめてくれ……)

「今だ! ここで“はい!”と元気よく返事しろ!」

(嫌だよ)

「好印象だワン!」

(絶対違う方向に行く)


中村は視線だけを下に落とした。


すると、デスクの影から白いしっぽがちょこんとはみ出している。


いた。


しかも普通に会社まで来ていた。


(なんで来てんだよ……!)

「信じろと言っただろう!」

(信じた俺が悪かった)


部長の話はまだ続いている。


「特に今年はだな――」


その横で、白いしっぽがぴんと立った。


嫌な予感がした。


「待て」

と中村は心の中で言う。

「なに?」

「今、お前なんかしようとしてるだろ」

「してないワン」

「絶対してる」

「会社運をちょっとだけ上向かせるだけだワン」

「その“ちょっとだけ”でだいたい壊れるんだよ」


だが、フクはすでに動いていた。


白い影がするりとデスクの間を抜けていく。


向かった先は、コピー機だった。


「おい」


中村は反射で小さく声を漏らした。


相沢が横を見る。

「ん?」

「いや、なんでもないです」


なんでもなくはなかった。


コピー機の前で、フクが前足をぴんと上げる。


「よし……ここに小さな福を流す!」

(やめろ!)

「新年の紙運アップだワン!」

(初耳だよそんな運!)


次の瞬間。


コピー機が、がちゃん、と妙な音を立てた。


フロアの空気が、わずかに止まる。


部長も話を止めた。


「……なんだ?」


中村はゆっくり目を閉じた。


始まった。


新年一発目から、もう始まってしまった。


コピー機の液晶には、見覚えのある嫌な表示が出ていた。


紙詰まり


桃花が小さく笑いをこらえる。

相沢が肩を震わせる。

部長は顔をしかめた。


全員の視線が中村の方へ集まった。


「中村」

と部長。

「はい」

「見てこい」

「ですよね」


中村は静かに立ち上がった。


デスクの影で、フクがどや顔をしていた。


「第一手、成功だワン!」

「どこがだよ……」


中村は心の中だけで深くため息をつきながら、コピー機へ向かった。


見ると、詰まっていたのはただのファクス用紙だった。

変な折れ方をしているが、まだ軽傷だ。

中村が紙を引き抜くと、コピー機は何事もなかったみたいな顔で復旧した。


「よし」

と部長が言う。

「中村、お前コピー機と相性いいな」


嫌な言い方だった。


「みんな、コピー機で困ったことがあったら中村に相談しろ」


コピー機修理係が追加された瞬間だった。


「中村! 成功だワン!」

「どこがだよ」

「存在感が出た!」

「望んでない」


仕事が始まった。


しばらくして。

白石さんがコピー機の前で「あれ……」と小さく声を漏らした時、足元でフクが前足を上げる。


「中村! 今度こそ幸運いくぞ!」


(えっ……)


コピー機が、がちゃん、と嫌な音を立てた。


「中村、出番だワン!」


近づくと、すでに白石さんも少し困った顔で立っていた。


「すみません、中村くん」

「いや、たぶん白石さんは悪くないです」

「でも、私が使おうとしたタイミングで……」

「そのタイミングに妙な呪いが重なっただけだと思ってください」

「年始から怖いこと言いますね」

「僕もそう思います」


白石さんが少しだけ笑う。

それだけで、今ここがただの災害現場ではなくなるから不思議だった。


中村はコピー機の蓋を開けた。


紙が中で絶妙な角度で噛んでいる。

一枚ならまだしも、二枚、三枚と連携していた。

年始から妙な団結力を見せなくていい。


「直りそう?」

と相沢が後ろから覗き込む。

「やるしかないですね」

「がんばれー」

「その軽い応援が一番腹立つんですよ」


「中村さん、年始から大変ですね」

と桃花が笑う。

「他人事だと思ってるだろ」

「ちょっとだけです」


その足元で、フクはまた余計な自信に満ちていた。


「安心しろ! ここで華麗に直せば、お前の評価は急上昇だワン!」

「お前のせいで起きてるんだろ」

「きっかけを作っただけだワン!」

「そのきっかけが要らないんだよ」


中村は慎重に紙を引いた。

一枚目は取れる。

二枚目もなんとか取れる。


三枚目がいやらしい位置にいた。


「うわ……」

「難しいですか?」

と白石さん。

「いや、たぶんいけます」

「その“たぶん”がちょっと不安です」

「僕も不安です」


その瞬間だった。


「今だワン! ここに微量の福を――」

「やめろ!」


遅かった。


ぴしっ、と小さな音がして、三枚目の紙が中で裂けた。


沈黙。


「あっ」

とフク。

「……あー」

と中村。


相沢が吹き出す。


「悪化してるじゃん」

「見れば分かります」

「年始から飛ばすなあ」

「飛ばしてるのは俺じゃないんですよ」


白石さんは口元を押さえていた。

たぶん笑いをこらえていた。

でも、ちょっとだけ無理だったらしい。


「……白石さん、三枚目だめにしてすみません」


「気にしないでください」

白石さんはまだ少し笑いを含んだ声で言った。

「なんだか、ごめんね……中村くん」


「いや、白石さんが謝る要素ないです」

「でもなんだか、中村くんに申し訳なくて」

「年始の厄をまとめて引き受けてるだけなんで」

「その言い方だとちょっとかわいそうですね」

「自分でもそう思います」


結局、中村は中で裂けた紙をピンセットみたいな指使いで少しずつ引っ張り出し、どうにかコピー機を復旧させた。

年始からあまり身につけたくない技術がまた一つ役に立った。


「直りました」

「助かりました」

と白石さん。

「ありがとうございます」

「いえ、まあ……」


その「助かりました」が、疲れたところに妙に染みる。


だが、その直後。


「中村、これついでに十部ずつ頼む」

と部長。


「ついで、の範囲が広いんですよ」

「仕事だろ」

「それはそうなんですけどね……」


相沢が笑い、桃花も肩を揺らす。


フクは横でしっぽをぶんぶん振っていた。


「見たか! 役に立ってるワン!」

「仕事が増えてるだけだろ」

「必要とされている!」

「便利に使われてるとも言うんだよ」


午前中はそのまま、じわじわと削られ続けた。


メールは増える。

部長の声は雑に飛ぶ。

周りはいつも通りで、フクだけが「次こそいけるワン」を繰り返していた。


そのたびに小さなズレが起きた。


ホチキスの針が変な方向に飛んだり、

中村の机の上の付箋だけ風もないのに散らかったり、

白石さんに渡すはずの書類が相沢の机に滑り込んだり。


致命傷ではない。

でも、地味に全部めんどくさい。


その積み重ねが、一番しんどい。


午前の小休憩。

中村は給湯室へ避難した。


避難、という言葉がいちばんしっくりくる。


紙コップにコーヒーを落とす。

湯気を見ていると、少しだけ人間に戻れる気がした。


「中村」

「なんだよ」

「今日は流れが来てるワン」

「どこに」

「もう少しで大きい福になる」

「その手前でだいたい壊してるだろ、お前」

「細かい失敗に目を向けすぎだワン」

「細かい失敗が積もると人は疲れるんだよ」


フクは、むっとした顔になった。


「俺はちゃんと助けようとしてるワン」

「してるつもり、だろ」

「違うワン」

「違わないだろ」


中村の声が、自分でも思ったより低くなった。


フクが黙る。


中村も少しだけ息を止めた。

でも、もう止まらなかった。


「お前さ」

「……」

「助けてるんじゃなくて、“助けたお前”がほしいだけだろ」


給湯室の空気が静まる。


コーヒーメーカーの音だけが、妙に普通に響いていた。


フクは目を丸くした。


「違うワン」

「違わないだろ」

「相手が助かったかどうかより、お前、自分が“やった”って思いたいだけじゃないのか」


フクの耳がぴくっと揺れる。


中村は紙コップを持ったまま続けた。


「お前、派手な方が好きなんだよ」

「仕事がうまくいくとか、金運とか、好感度とか、分かりやすいやつ」

「……」

「でも、それ相手が本当にほしいものかどうか、見てないだろ」

「そんなこと」

「あるだろ」


フクはそこで、初めてちゃんと詰まった。


今までは失敗してもすぐ次へ行っていたのに、今回は違った。


「……見習い卒業、したいワン」

とフクは小さく言った。


中村は少しだけ黙った。


「やっぱりな」

「でも、それの何が悪いワン」

「悪いとまでは言ってない」

「じゃあ」

「同じじゃないって言ってるんだよ」


フクは見上げてくる。

その顔は、さっきまでのどや顔じゃなかった。


「ありがたいかどうかって、

 お前が決めることじゃないだろ」

と中村。

「相手が助かったかどうかだろ、そこは」

「……」

「お前が気持ちよくなるために福を押しつけられても、わりと困るんだよ」


言い終わってから、中村はコーヒーをひと口飲んだ。


少し苦い。

タイミングのせいかもしれない。


フクはしばらく黙っていた。


それから、いつもよりずっと小さい声で言う。


「……じゃあ、どうすればよかったワン」


その聞き方が、少し予想外だった。


「違うワン!」と押し返してくると思っていた。

でも今のフクは、少しだけ小さく見えた。


中村は答えようとして、止まる。


どうすればよかったか。

そんなの、自分だっていつも分かっているわけじゃない。


見ないふりをして、

あとでちょっとだけ後味が悪くなることなんて、山ほどある。


自分だけは違う、なんて顔で教えられるほど、きれいには生きていない。


「……知らないよ」

と中村は言った。

「自分で考えろ」

「冷たいワン」

「今日のお前に言われたくない」

「でも」

「でもじゃない」


フクはまた黙った。


その時、給湯室の入口で控えめな音がした。


白石さんだった。


「あ、すみません」

「いえ」

「コーヒー、でしたか」

「はい。ちょっと避難してました」

「分かります」


白石さんは少しだけ笑った。

それから棚のあたりを見て、手を止める。


「あれ……」


「どうかしました?」

と中村。


「午後の打ち合わせで使う青いファイル、ここに置いたと思ったんですけど」

「急ぎですか」

「はい、かなり」


中村は一瞬だけ棚を見る。

その横で、フクも顔を上げた。


白石さんは明らかに困っていた。

同じ棚を三回開いたり、奥をのぞいたり、いつもの白石さんではなかった。


中村は足元に視線を落とす。


(まさか、お前がやったのか)


フクは何も言わなかった。

さっきまでしょんぼりしていたくせに、その目だけ少し真面目だった。


(……いつものフクじゃない)


中村は紙コップを置いた。


「ここにはなさそうですね」

「……ここに置いたはずなんですけど」

白石さんは小さく首をかしげる。


「……探します」

「え、大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないですけど、一緒に探したほうが早いんで」

「そういうとこ、ちゃんとしてますね」

「そう言われ慣れてないので、ちょっと効きます」


白石さんがわずかに微笑む。


その横で、フクは何も言わなかった。


飛び出して余計なことをするわけでもなく、

ただ中村の足元に静かについていた。


何か考えているらしかった。

たぶん、こいつなりに。


中村はそれを横目で見ながら、白石さんと一緒に給湯室を出た。


フクは、まだ何も言わなかった。



第3話 目立たない福のほうが、ちゃんと効く


給湯室を出たあとも、フクはやけに静かだった。


中村の足元をついてくる。

ついてはくるが、いつものように


「今だワン!」

とか

「そこだワン!」

とか、


そういう余計な合図はしてこない。


それがそれで、少し気になった。


「……どうした」

と中村が小さく言う。


「別に」

とフク。


「犬の“別に”は信用ならないな」

「中村だって人間の“別に”は信用できないワン」

「……まあ、それはそうか」


白石さんは少しだけ困ったように笑った。


困っているのに、場を重くしない人だなと中村は思う。

そういうところも、ちゃんとしている。


「念のため、元の場所も見てみませんか」

と中村。

「誰かが戻してくれてるかもしれないですし」


棚の前で立ち止まる。


青いファイルは何冊もある。

紺もある。

水色もある。

青っぽいけど違うやつもある。


これは、地味にしんどいやつだった。


「背表紙、どんな感じでした?」

「白いシールが貼ってあって……たぶん“打ち合わせ資料”って」

「たぶんなんですね」

「急いでたので……」

「そういう時ありますよね」


「じゃあ、上から見ていきます」

「ありがとうございます」

「いえ。二人で見た方が早いんで」

「それ、頼もしいですね」

「そう言われ慣れてないので、ちょっと効きます」


白石さんが小さく笑った。


その横で、フクは何も言わない。

本当に珍しかった。


中村は棚の上段から順に視線を滑らせる。


「こういうの、探す時に限って全部同じに見えるんですよね」

「分かります」

「しかも、だいたい“ここにはないだろ”って場所から出てくる」

「それも分かります」


二人で小声で話しながら探していると、少しだけ空気がやわらいだ。


大ごとじゃない。

でも、中村にとってはこういう小さい時間の方が、たぶん変に緊張する。


その時、後ろから相沢の声がした。


「白石さん、それまだ見つかってないんすか?」

「はい、ちょっとだけ」

「中村、捜索隊になってんじゃん」

「年始から肩書き増えるの、だいぶ嫌なんですけど」

「コピー機係の次は探し物係か」

「やめてください。全部雑用っぽいんで」


桃花も棚の下を覗き込みながら言う。


「こういうのって、案外ぜんぜん関係ないとこに紛れてたりしますよね」

「ありますね」

と中村。

「探してない場所ほど怪しいんですよね」

「それっぽいです」


会話はしている。

でも、中村の意識の端はずっと足元にあった。


フクがまだ静かだったからだ。


ちらっと見ると、白い犬は棚の前に座っていた。

しっぽもあまり振っていない。

いつもの“俺がなんとかするワン”の顔でもなかった。


「……おい」

と中村は小さく言う。

「なんだワン」

「お前、今日ほんと静かだな」

「考えてるワン」

「珍しいな」

「失礼だワン」


でも、声はいつもよりずっと小さかった。


中村はまた棚に目を戻した。


白いシール。

青いファイル。

打ち合わせ資料。


視線を滑らせていく。

その途中で、棚のいちばん端にある紙袋が少しだけ浮いているのが目に入った。


ほんの少しだけ、下に何か挟まっている。


中村が手を伸ばしかけた、その時だった。


足元で、フクがしっぽの先だけを一回動かした。


言葉はない。


ただ、

そこだ、

とでも言うみたいに、ほんの少しだけ目線を向ける。


中村は動きを止めた。


「……まさか」


紙袋を持ち上げる。


その下から、青いファイルの端が見えた。


「あ」

と中村。

「ありました」

「え?」

と白石さん。


中村が引き出すと、白いシールの貼られた青いファイルが、ちゃんとそこにあった。


「ほんとだ……!」

白石さんの声が少し明るくなる。

「これです」

「よかった」

「ありがとうございます、中村くん」

「いえ、たまたま見えただけなんで」

「何でこんなところに……」

「でも、たまたまで見つけられるの、すごいですよ」

「そういう評価、最近ちょっと効くんですよね」

「やっぱり、バレてましたか」


白石さんは少し笑った。


その笑い方がやわらかくて、中村は少しだけ視線をずらす。


相沢が横から口を挟む。


「おー、さすが探し物係」

「その肩書き定着させるのやめてもらっていいですか」

「コピー機係よりはマシじゃん」

「どっちも嫌ですよ」


桃花がくすっと笑う。


「でも中村さん、こういう時ほんとちゃんとしてますよね」

「今日は妙にその評価もらうな」

「大事なんで」

と桃花。


「褒めても何も出ないよ」

「あーあ、残念」


桃花がわざとらしくそう言って笑う。

その顔に、中村は一瞬だけ返事を忘れた。


「……仕事しろ」


みんなが散っていく。


白石さんもファイルを抱え直して、

「本当に助かりました。午後、これでなんとかなりそうです」

と言って頭を下げた。


「よかったです」

「……あと」

「はい?」

「さっきのコピー機の件、ちょっと面白かったです」

「忘れてください」

「無理です」

「ですよね……」


白石さんはまた笑って、そのまま席へ戻っていった。


中村は小さく息を吐く。


「……見つかってよかった」

とつぶやくと、足元から声がした。


「今回は、あれでよかったワン」


中村は視線を落とす。


フクは棚の下で、少しだけ照れくさそうな顔をしていた。


「ずいぶん静かだったな」

「目立つと、だいたい壊れるって言われたからな」

「だいたいじゃなくて、ほぼ壊してたけどな」

「うるさいワン」


でも、その声には前みたいな勢いがなかった。

代わりに、少しだけ考えたあとの重さみたいなものがあった。


中村はそれを見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「……まあ」

「前よりはマシだったよ」

「ほんとか!」

「声量は戻すな」

「うれしかったんだワン!」

「わかるけど戻すなって」


フクは慌てて口を閉じた。

いや、念話なので実際には口は動いていないのだが、そういう感じの慌て方だった。


中村は自分の席へ戻る。


午後の仕事は、まだ普通にある。

部長はたぶん午後も部長だし、相沢は軽いし、桃花は元気だ。

急に全部が優しくなるわけではない。


それでも、さっきのフクは少し違った。


目立とうとしなかった。

派手な福を押しつけなかった。

自分で解決した顔もしなかった。


ただ、ほんの少しだけ、届く場所を教えた。


それだけだった。


でも、その“それだけ”が、たぶん今まででいちばんまともだった。


中村はパソコンの画面を開きながら、小さく言った。


「なあ、フク」

「なんだワン」

「今回のは、ちゃんとした福だったかもな」

「……そうだろう?」

「ちょっとだけな」

「ちょっとだけか」

「欲張ると良くないんだろ」

「お前、その理屈ほんと好きだな」

「最初に言ったの、お前だからな」


フクはしばらく黙っていた。


それから、ぽつりと言う。


「中村」

「何」

「俺、見習い卒業かもしれないワン」

「急だな」

「でも、今ちょっと光りそうな感じがしてる」

「犬の自己申告ほど信用できないものあるか?」

「ひどいワン」


その時だった。


フクの首についた小さな札が、ほんのり光った。


中村は目を細める。


「……お」

「ほら見ろ!」

「静かにしろ」

「すごいワン! 本当に来たワン!」

「だから静かにしろって」


札の光は、すぐに落ち着いた。

派手ではない。

でも、ちゃんと何かが変わった感じはあった。


フクは自分の胸元を見て、それから中村を見上げた。


「中村!」

「何だよ」

「俺、見習い卒業だワン!」

「マジか」

「たぶん!」

「たぶんかよ」

「いや、かなり! 九割五分!」

「その五分が不安なんだよ」


フクはしっぽを勢いよく振った。


それから急に、少しだけ真面目な声になる。


「……でも」

「なんだ」

「今回は、ちゃんと届いた気がしたワン」

「まあ、そうだな」

「お前が見つけたことになったし」

「そこ大事だからな」

「前より少しは分かったワン」

「何が」

「福って、目立てばいいわけじゃないんだな」


中村は一瞬だけ黙った。


それから、

「最初からそう言ってる」

と返す。


フクは鼻を鳴らした。


「お前の言い方はちょっと感じ悪かったワン」

「そりゃ悪かったな」

「でも、たぶん効いたワン」

「そうかよ」


少しだけ間が空く。


「じゃあ、俺はそろそろ行くワン」

「……お」

「卒業したからな!」

「急にちゃんと別れの空気出すな」

「また呼べば来るワン!」

「呼ばない」

「中村は素直じゃないワン」

「お前がうるさいだけだろ」


フクは最後にもう一度だけ、胸を張った。


最初に会った時と同じ、妙に自信のあるポーズだった。

でも、少しだけ前よりマシに見えた。


札がふっと光る。


白い体が、少しずつ透けていく。


「中村!」

「なんだ」

「カフェオレだけで終わるなワン!」

「最後にそこかよ」

「大事だワン!」

「覚えてるよ」

「ならよし!」


そこでフクは、ふと何かに引っかかったみたいに目を細めた。


「……そういえば」

「なんだよ」

「なんかお前、変なのに目つけられてないか?」


「は?」

「どういうことだよ」


フクは少しだけ首をひねる。


「いや、気のせいならいいワン」

「気になる言い方だけ残すな」

「今の俺、卒業したてで感覚がぶれてるワン!」

「知らないよ」


そう言って、フクの姿はふっと消えた。


中村はしばらく足元を見たまま動かなかった。


静かだった。


うるさい犬がいなくなると、こんなに静かなんだなと思う。

たぶん、しばらくは平和だ。


……平和なはずだった。


でも、妙な胸ざわぎだけが、なぜか消えなかった。


「中村くん?」


顔を上げると、白石さんが不思議そうにこちらを見ていた。


「大丈夫ですか?」

「え、あ、はい」

「なんだか少し、ぼーっとしてたので」

「ちょっとだけ、騒がしいのが急にいなくなった感じで」

「そういう日もありますよね」

「……ありますね」


白石さんはやわらかく笑った。

「今日は本当に助かりました」

「いえ、まあ……」

「コピー機のことも、ファイルのことも」

「年始の厄をまとめて引き受けただけなんで」

「その言い方、まだ気に入ってるんですね」

「わりと」

「ふふ」


白石さんは少し笑って、それから小さく息をついた。


「このあと、もしよかったら……」

「はい?」

「一緒にご飯、行きませんか?」


中村は一瞬だけ黙った。


それから、フクのいない足元ではなく、少しだけ空を見上げる。


(お前、ほんとに“福”を持ってきたんだな)


「……何か言いました?」

と白石さん。


「いえ」

中村は少しだけ咳払いをした。

「僕、いつもカフェオレばっかりなんで……ご飯、助かります」


白石さんがふっと笑う。


「よかったです」

「こちらこそ」

「じゃあ、仕事が終わったら」

「はい」


その時だった。


「中村、幸福にしてやったワン!」


そんな優しい風が、耳元をかすめていった。


中村は思わず振り返る。


もちろん、白い犬の姿はもうなかった。


中村は空を見た。


うるさい犬はいなくなった。

たぶん、しばらくは平和だ。


でも、胸の奥にはまだ、あの妙なざわつきが残っていた。


中村の正月は、思っていたより少しだけ騒がしかった。

それでも、そこまで悪くはなかった。


本作は『社員旅行は、だいたい修行』に続く、

中村君シリーズ第4作です。


今回は、初詣で“少しだけ余計な福”を拾う話になりました。


ここから読んでも楽しめますが、

前作から読むと、中村君の奮闘や登場人物たちの空気を、より楽しんでいただけると思います。


もし少しでも楽しんでいただけたら、

評価や感想で応援していただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
中村君の願いごと、地味…!だけど、はっとするものがありますね。 犬や福、正月明けの職場への洞察が鋭い。 フクかわいい。かわいいものを甘やかさないところ、ちゃんとしてます。
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