貴族の引き抜き
「皆さん、南の街よりフリードル伯爵様がいらっしゃいました。ご挨拶に集まりなさい」
院長の声が聞こえた。
早い。
予定より大分早いお貴族様の到着だった。
俺は食堂を出た後、自室に戻ってすぐに薬を飲んだが……
ちらりと横目でルーシャを見る。
瞳の色が変わっていない。化粧は間に合っているようだが、薬を飲んでからさほど時間が経っておらず、効果がまだ出ていないようだ。
非常にマズい。
かく言う俺も、まだ瞳の色が完全に変わっているわけではなかった。
どうしよう、また何か対策を考えないと――
幼い頃ルーシャが変装に失敗したときは、俺が汚い格好でルーシャに抱きついてわざと汚してみたり、耳を破壊せんばかりの威力で二人揃って泣き叫んだりしていた。
最近はお貴族様の訪問も少なくなっていたし、変装を失敗すると思っていなかったので、対策を考えていない。
汚したり泣いたりするのは、幼い子供だから通用した。
どうしよう、もうお貴族様がすぐそこまで来ている。
何とかしてルーシャを守らなければ。
「おや? 君、少しキレイな目をしてるね。顔立ちも良い。是非ともうちに来てほしいものだ」
え?
思わず伯爵を見上げ、目を合わせてしまった。
ルーシャじゃなくて、俺――?
そうか、まだルーシャが目に入っていないのか。
しかし、瞳の色が変わりきっていないルーシャが伯爵の目に留まるのも時間の問題だ。
いや、それより早く対策を考えないと。
「あれ、そこのお嬢ちゃんもおんなじだね。双子の兄妹かな? 顔はちょっと汚いけど、お兄ちゃんよりさらに良い目をしてるじゃないか」
ルーシャは言葉を発せず、棒立ちになって震えている。
俺が何とかしなきゃいけないのに、動かなきゃいけないのに――!
「一度に二人は、ちょっとなあ。お嬢ちゃんだけでも、どうかなあ」
やばい、このままじゃルーシャが連れてかれる。
「俺の妹に、手を出すな」
俺はほとんど無意識に、伯爵の前に出ていた。
こんな事を言っても、意味がないと分かっている。それなのに、他に方法が思いつかなかった。
こうなったら、汚い言葉でまくし立てて、この状況をうやむやにしてしまえ。
「僕は君に発言を許可していないよ。君たちには何の権利もないんだ。わかったら、妹ちゃんとお別れのあいさつでもしたらどうだい?」
「絶対に嫌だ。お前みたいないかにも下品で傲慢なやつのところに、そうホイホイついていくわけがないだろ。失せろよジジイ!」
あ、ちょっと言い過ぎたかな。院長が青い顔してる。
それと対象に、伯爵の顔はみるみるうちに赤くなっていった。
「何て無礼な子供だね! ここの教育はどうなっているんだ? 僕が誰だか分かって口をきいているのかい? こんな孤児院、僕の手にかかればひとたまりもないんだからな!」
「はあ? 伯爵ごときが本当にそんな権力持ってんのかよ。ここは国営の孤児院だぞ? そんなことも知らずに来たのか? 随分と頭がお花畑な伯爵様だなあ! 笑えるよ」
この孤児院は二年前国から認定された。それから悪質な引き抜きを行うお貴族様の訪問はなくなっていたのに、この馬鹿な伯爵は下調べもせずのこのことやってきたようだ。
「わかった、君は威勢がいいね。僕は心が広いから、特別にうちの用心棒として雇ってあげてもいいよ。まあこれ以上僕に盾突こうものなら、バラバラにして売り飛ばすけどね」
「お前んとこに行くなんざ御免だよ。それなら野垂れ死んだほうがマシだ」
「おやあ、忠告は今したばかりなんだけどなあ。売り飛ばされても良いんだね? よし、こっちにおいで」
つくづく馬鹿な伯爵だ。俺がすんなりついていくわけがない。
「兄を許してください……どうか、命だけは……!」
ルーシャが割って入る。
ダメだ、ここで目をつけられてしまえば俺だけじゃなく、ルーシャまでひどい目に遭う。
「ふうん、そうか。悪くないね。君がもう少しキレイになって、僕の妾になれば、この無礼なお兄ちゃんを許してもいいよ」
「それは……」
妾と聞いて、ルーシャはビクッと肩を震わせた。
どうしよう、これ以上状況がよくなる見込みが無い。
あと少しで掴めたはずの自由が、どんどん遠ざかっていくのが感じられる。
「妹をお前の妾になんてさせるもんか!」
惨めにジタバタ足掻いても、何にもならない。
俺たちには、何の権利も地位もないんだ。
所詮、親に捨てられたただの不幸な子供。
今まで要領良く生きてきたつもりだったけど、やっぱり自由にはなれないんだ――
全てを諦めようとした、その時。
「騒がしいな。何事だ?」
扉が放たれた孤児院に、一筋の光がさした。




