第27話 瞬雷-2
ジルゼンドの指導が始まってから数日が経過したが、ライは未だ「瞬雷」の極意を掴めずにいた。道場の床には、彼の流した汗が無数の染みを作っている。
「構えるな」「動くな」「考えるな」──その三つの教えは、言葉で理解できても、身体で実行するのは想像を絶するほど困難だった。長年染み付いた戦闘の癖は、そう簡単には抜けない。 ジルゼンドが木剣を構え、微動だにせず立つ。ライはその静寂の中に潜む「起こり」を捉えようと、全神経を集中させる。だが焦れば焦るほど、思考が邪魔をする。
(来るか…? いや、まだだ…今か…?)
僅かな肩の動き、呼吸のリズムの変化、視線の揺らぎ──それら全てに意識を向けようとするが、逆にジルゼンドの放つ微細なフェイントに翻弄され、反応が遅れる。あるいは、先読みしようとしすぎて動きが硬くなり、そこを的確に突かれる。
パシン、と乾いた音が響き、またしてもライの木剣が宙を舞った。
「まだだ!お前の動きには迷いが見える」
ジルゼンドの鋭い声が飛ぶ。
「『仕掛けたい』『当てたい』という欲が、お前の感覚を曇らせている。それでは、相手の真の『起こり』など見えるはずもない」
ライは歯を食いしばり、何度も立ち向かう。だが、結果は同じだった。彼の剣はジルゼンドに届かず、逆にいとも容易くあしらわれる。身体の疲労よりも、何もできない自分への苛立ちが募っていく。
(なんで…見えないんだ…! 以前の俺なら、これほどの相手でも、何か手掛かりを掴めたはずなのに…)
無意識のうちに、失った力への渇望が、彼の冷静さを奪っていく。
ある時、いつものようにジルゼンドの攻撃を避けきれず、肩口に痛烈な一撃を受けたライは、思わず膝をついた。
「ぐっ…!」
「お前の目には、まだ“勝ちたい”という欲が見える。あるいは、“負けたくない”という恐怖か」
ジルゼンドは木剣を下ろし、厳しい視線でライを見下ろした。
「それでは駄目だ。『瞬雷』は生き残るための技ではない、勝つための、いや、殺すための一撃だ。お前はいつもどこか“助かりたい”“生き延びたい”という顔をしている。それでは、全てを削ぎ落した“殺し合い”の一太刀は出せん」
その言葉は、ライの心の奥底に突き刺さった。
(死にたくない…生き延びたい…か)
確かに、NPCとなってからの自分は、常に死の恐怖と隣り合わせだった。あのダンジョンで一度は本当に死にかけ、そして今も理不尽な運命に翻弄されている。失った力を取り戻し、この状況を打開したいという焦りが、無意識のうちに彼の剣を鈍らせ、守りに入らせていたのかもしれない。 それは、ただ純粋に強さだけを追い求めていた「レイヴン」の頃にはなかった感情だった。
「『瞬雷』は、己の全てを捨て、ただ一撃に凝縮させる技。そこに恐怖や迷いが入る余地はない。お前が本当にその極意を掴みたいのなら、まずその“助かりたい”という心を殺せ」
ジルゼンドの言葉は、容赦なくライの内面を抉り出す。
「それができぬなら、お前はここで終わりだ」
ライは、床に落ちた自分の汗を見つめながら、長く、深く息を吐いた。ジルゼンドの指摘は、的確に彼の弱点を突いていた。この壁を越えなければ、「瞬雷」はおろか、この先にあるであろう更なる困難にも立ち向かえないだろう。 彼はゆっくりと立ち上がり、再び木剣を握りしめた。
その日から数日、ライの内面では激しい葛藤が続いていた。NPCとしての死への恐怖、失った力への焦燥、そして「レイヴン」であった頃の純粋な強さへの渇望。それらが渾然一体となり、彼を苛んでいたが、彼はジルゼンドの言葉を胸に刻み、ただひたすらに木剣を振り続けた。
そしてある日、苦悩の色を深めるライに対し、ジルゼンドは静かに言葉をかけた。
「まだ己の中の雑念と戦っているのか。良いか、『瞬雷』の核心は、相手の意識が行動に移るまさにその瞬間、その思考が形を成す前の『ゼロ』の状態を捉え、そこに己の全てを叩き込むことだ」
ジルゼンドの声は、いつになく静かで、諭すような響きを持っていた。
「雷鳴は光った後に轟くものだが、『瞬雷』は“鳴りを待たずに、光と共に落ちる”。相手が認識する前に勝負を決める、そういう技だ。そのためには、己の意志すらも無にするほどの集中と、相手との一体感が不可欠となる」
その言葉は、暗中模索していたライにとって、一条の光のように感じられた。
「無にする」──その感覚が、今の自分に最も欠けているものかもしれない。
「これが最後の課題だ」
ジルゼンドはそう言うと、道場の中央に立てられた太い木柱を指差した。それは模擬戦や日々の鍛錬で、既に無数の傷が刻まれている。
「あの木柱を、『瞬雷』で斬ってみせろ。何の思考も挟まず、ただ斬るという結果だけをイメージし、初動の一歩に全てを乗せて放て。それができれば、お前は『瞬雷』の入り口に立ったと言えよう」
ライは木柱の前に立ち、ゆっくりと目を閉じた。これまでのジルゼンドの言葉が、脳裏を駆け巡る。
「構えるな」「動くな」「考えるな」「助かりたい心を殺せ」。
そして、自身の内なる声を聞く。恐怖も、焦りも、渇望も、全てを一度、心の奥底に沈める。雑念が消え、意識が研ぎ澄まされていく。
ただ一点、木柱を「斬る」という、純粋な結果だけを心に描く。
次の瞬間、ライは目を見開いた。そこに迷いはなかった。彼の身体は、思考よりも早く、自然と動き出していた。踏み込みと同時に放たれた一閃は、もはやライ自身の意志というよりも、研ぎ澄まされた魂が放った軌跡そのものだった。予備動作の欠片すら感じさせない、まさに「無拍子」の一撃。
パァンッ!
木柱は、まるで爆ぜるかのように両断され、その斬り口は鏡のように滑らかだった。
ライは、木剣を振り抜いた体勢のまま、静かに息を吐く。身体の奥底から、これまで感じたことのないような充足感と、確かな手応えが湧き上がってくる。
純粋な「剣士」としての無我の境地。そして、確かに掴んだ「瞬雷」の確かな手応えだった。
ジルゼンドは、その光景を腕を組んだまま静かに見届けていたが、やがてその口元に、深い満足を湛えた笑みが浮かんだ。
「……見事だ。ようやく、その一端を掴めたか」
その声には、厳しい指導者としてだけでなく、一人の剣士が新たな境地に至ったことへの、素直な称賛が込められていた。
「……その一閃、確かに『瞬雷』だった」
ジルゼンドは、満足げに頷きながら近づいてきた。その顔には、いつもの厳しい表情はなく、どこか穏やかさすら感じられる。
「数日間のこの特訓を経てお前が何を得たか…技で終わりではない。戦いを通じてその核心を掴め」
その言葉は、ライにとって特訓の終わりを意味していた。寂しさにも似た感情が、わずかに胸をよぎる。この数日間、ジルゼンドの指導は過酷を極めたが、同時に得難いものであったことも事実だった。
ジルゼンドはライの肩を一度だけ強く叩くと、彼に背を向け、道場の戸口へとゆっくりと歩き出す。その背中は、長年戦場に身を置いた者の、揺るぎない風格を漂わせていた。
戸口で足を止め、ジルゼンドは一度だけ振り返る。その眼差しは、再び鋭さを取り戻していた。
「ただし、一つだけ覚えておけ」
その声は、道場の静寂の中に、重く響いた。
「『瞬雷』は、お前が“斬る覚悟”を定めた瞬間にのみ真価を発揮する。それは、生きるためでも、勝つためでもない。ただ、目の前の敵を断つという純粋な意志。その覚悟を忘れた時、その技はただの速いだけの剣となり、いずれお前自身を滅ぼすだろう」
その言葉は、ライの魂に深く刻み込まれた。「瞬雷」という技の真髄は、技術だけではなく、それを振るう者の心構えにあるのだと。
ライは、斬り裂かれた木柱を見つめながら、静かに、しかし力強く答えた。
「ああ……分かってる…この技を極め、いずれ貴方自身を超えてみせる」
ジルゼンドは、その返事を聞くと、何も言わずに手をヒラヒラとし道場を後にした。残されたのは、朝日が差し込む静かな道場と、新たな力を手に入れたライ、そして、彼がこれから進むべき道の厳しさを示すかのように、真っ二つに断たれた木柱だけだった。




