表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/52

第3話 力の萌芽

 翌朝、空が白み始めるよりも早く、ライは畑に立っていた。夜明け前の冷気が肌を刺す中、彼は使い慣れた鍬を手に、一心不乱に土と向き合い始めた。

 数時間が経過しただろうか。陽の光はまだ弱く、畑全体を淡い茜色に染めている。ライの額には玉のような汗が浮かび、麻のシャツがじっとりと湿っていた。彼はただひたすらに鍬を振るっていた。昨日よりもさらに深く、土の状態を感じ取る。

 鍬を振り下ろす角度、踏み込む足の力加減、身体の軸の安定、呼吸のリズム。それら全ての感覚を一つ一つ丁寧に意識し、再構築していく。

 それはもはや単なる労働ではなく、彼にとって未知の法則を解き明かすための実験であり、瞑想にも似た精神統一の行いだった。


 その瞬間は、不意に訪れた。


 延々と繰り返される動作の中で、ふと、全てのピースが完璧に噛み合ったかのような感覚がライを貫いた。鍬の先端が土に吸い込まれる角度、体重移動のスムーズさ、土塊が返る時の抵抗の消え方――それら全てが、寸分の狂いもなく調和し、身体と大地が一体となったかのような錯覚。まるで、記憶の奥底に眠っていた知識が呼び覚まされ、脳内を鮮明なイメージとなって駆け巡る。身体の隅々まで、その最適化された動きが染み渡っていくのを、彼ははっきりと感じていた。

 カッ──。

 まるで内側から弾けるような微かな音と共に、視界の隅に淡い青白い光が明滅した。

 《土壌観察の心得を習得しました》

 《農耕の心得を習得しました》

 続けざまに表示されたウィンドウの文字を、ライは驚きと共に目で追った。MPを消費するわけでも、特定のスキルツリーを解放したわけでもない。だが、確かに今、自分の中に新しい力が根付いたという確かな実感があった。

「“心得”…?」

 呟きは、朝の静けさに溶けた。プレイヤーだった頃に習得した生産スキルとは明らかに異なる。あれはシステムに用意された便宜的な機能に近く、熟練度を上げれば誰でも同じ結果が得られた。しかし、この「心得」は違う。自身の経験と深い理解、そしてこの世界の法則そのものとの調和から生まれる、もっと根源的で、有機的な力。 「NPCは、スキルではなく“心得”によって力を得る……のか?これは、ただの農作業技術なんかじゃない。世界の理の一端に、直接触れるような……もしかしたらあの忌々しい“何か”に対抗するための、全く新しい道筋になるかもしれない……!」

 あの空間で味わった、絶対的な力を持つ存在による理不尽な敗北。その記憶が脳裏を掠め、ライの胸に熱いものが込み上げる。それは絶望ではなく、困難な道筋の先に微かに見えた、一条の光に対するものだった。

「わぁっ! ライ兄ちゃーん! 今日の畑、なんだかすごーい!」

 背後から、ルカの快活な声が飛んできた。振り返ると、小さな鍬を肩に担いだルカと、その後ろからミーナが駆け寄ってくるところだった。二人とも、ライが耕した後の畝を見て、目を丸くしている。

「昨日よりも、もっともっとふわふわだよ! 土が、なんだか……あったかい気がする!」

 ミーナが屈み込み、そっと土に手を触れて感嘆の声を上げた。子供たちの純粋な言葉に嘘はない。ライ自身も、足元の土が明らかに変わったのを感じていた。まるで呼吸をしているかのように柔らかく、生命力に満ち溢れている。それは、昨日までの彼がどれだけ力を込めて耕しても到達できなかった領域だった。

 ライは、子供たちの屈託のない笑顔を見つめながら、ふと問いかけた。

「なあ、ルカ、ミーナ。お前たちは……自分のこと、“NPC”だと思うか?」

 唐突な質問だった。だが、今の彼にとっては切実な問いでもあった。 ルカはきょとんとした顔で首を傾げ、ミーナは小首をかしげてライの顔を見上げた。

「んー? なに当たり前のこと聞いてるの?」

「難しいことはわかんないけど、あたしたちは、あたしたちだよ! ね、ルカ兄ちゃん!」

 ミーナがにこっと笑い、ルカも「そーだそーだ!」と胸を張る。そのあまりにも純粋で、曇りのない答えに、ライは不意に胸の奥を強く突かれたような衝撃を覚えた。 (いや、そうか…NPCはNPCでも思考して、生きてる…それだけか)

 このゲームを発売した”Az社”はNPCを自律思考型AIだと喧伝していたが、今、目の前にいる子供たちは、確かに笑い、考え、感じ、そして生きている。この手で触れられる温もり、この胸に響く声、そして何よりも、彼らが向けてくれる信頼の眼差し。

(これは紛れもない“命”そのものだ。俺が守らなければならない、かけがえのないものが、ここにはあるんだ)

 ライの心の中で、何かが確かな形を結び始めていた。それは、失った力を取り戻すことへの渇望とはまた違う、もっと温かく、そして強い感情だった。

 その日の夕暮れ時、いつものように畑仕事の様子を見に来たアンバーが、ライの耕した区画を見て目を丸くした。皺の刻まれた顔に、驚きと深い納得の色が浮かんでいる。

「……おお。これは……大したもんだ。たった数日で、これほど畑を蘇らせるとは……。まるで土が、お前に心を開いたかのようだ」

 アンバーはゆっくりと畝の間を歩き、時折屈み込んでは土を手に取り、その感触を確かめるように頷いた。

「土というものは正直でな。人の心を映す鏡のようなものだ。愛情を注げば応えてくれるし、手を抜けばたちまち荒れてしまう。お前の今の畑は……とても良い顔をしているぞ」

 穏やかながらも、どこかライの心を見透かすようなアンバーの言葉。ライはただ黙ってそれを聞き、夕焼けに染まる畑を眺めた。鍬を握る手に残る確かな感触と、心地よい疲労感。それは、かつて聖剣レーヴァテインを振るい、神話級のモンスターすら屠ってきたあの頃の全能感とは全く異なるものだった。 だが、この土との対話の中に、彼は確かに新しい力と、「生きている」という確かな手応えを見出し始めていた。


 それから数日が経過した。 ライは「心得」の力を意識的に使いこなし、畑仕事の効率は目に見えて上がっていた。彼が手入れした区画の作物は瑞々しく育ち、周囲の村人たちからも驚きの声が上がるほどだった。シェリンも「ライのおかげで、今年の野菜は本当に出来が良さそう! これなら冬も安心ね」と、心からの笑顔を見せる日が増えた。その笑顔にライは小さな充足感を覚えるものの、彼の胸の内では、日増しに濃くなる不穏な噂が重くのしかかっていた。近隣の村々が、素性の知れぬ者たちに襲われているという話は、もはや無視できないほど具体的になりつつあったのだ。内心の焦りは、日々の穏やかさとは裏腹に募る一方だった。

 ある晩、夕食の後片付けを終えたシェリンが、沈んだ顔でライに話しかけてきた。その声はいつもの快活さを失い、細かく震えている。

「ねえ、ライ……聞いた? 西のミストラル村が……また、襲われたんだって……」

 ミストラル村は、エルム村からそう遠くない、比較的大きな村だった。そこですら被害が出たという事実は、エルム村の住人たちに大きな衝撃を与えていた。

「今度の連中は、もっと酷いらしいの……家々を焼き払って、抵抗した人は皆……女子供まで見せしめに……家畜も、食料も、何もかも奪っていったって……」

 シェリンの目には涙が浮かび、恐怖で声がかすれている。ライは何も言えず、ただ彼女の言葉に耳を傾けるしかなかった。

「ライ……私たちの村も、本当に……本当に大丈夫なのかな……? もし、あんな奴らが来たら……私……」

 そこで言葉を詰まらせ、シェリンは俯く。その震える肩を前に、ライは胸の奥から熱い感情が込み上げてくるのを感じた。

 ”必ず守り抜く”

 強く、そう誓った。しかし、今の自分はLv2の農民に過ぎない。「心得」は農作業には絶大な効果を発揮するが、直接的な戦闘力に結びつくものではない。具体的な戦闘手段も、この村を守り切る有効な手立ても、今の彼には思い浮かばなかった。焦りと無力感が、鉛のように重く心にのしかかる。

 その翌日の午後、事態はさらに切迫した。 村の猟師である壮年の男が、文字通り血相を変え、息も絶え絶えにアンバーの家へと駆け込んできたのだ。ライもちょうど、アンバーに畑のことで相談があってその場に居合わせていた。

「た、大変だ! 村から半日ほど西へ行った森の奥深く……数日前までは確実に無かったはずの、大規模な野営の跡を発見しました! 燃え残った焚き火がまだ新しく、周囲には食料の残骸や、何種類もの足跡が……あれは間違いなく、武装したよそ者……おそらくは、プレイヤーの一団です! それも、かなりの数かと……!」

 猟師の報告は、その場にいた者たちの顔色を一変させた。集会所と化していたアンバーの家は水を打ったように静まり返り、誰もが息を呑む。 アンバーは厳しい顔で猟師からさらに詳しい状況を聞き出すと、重々しく口を開いた。

「……皆、落ち着いて聞いてくれ。どうやら、我々の村にも、よそ者の影が迫っているようだ」

 彼はライにも視線を向け、その目に意見を求める色を浮かべた。ライは、元プレイヤーとしての知識から、それがおそらく略奪を目的としたプレイヤーギルドであり、痕跡の規模からして偵察ではなく本隊に近い可能性が高いこと、そして彼らが獲物と定めた村を襲うのに躊躇いなどないことを冷静に推測できた。しかし、それを伝えたところで、この村の限られた戦力で何ができるというのか。

 結局、アンバーは集まった村の男たちに、「各自、家の戸締りを厳重にし、いざという時のために貴重品をまとめ、子供たちや老人たちの避難場所も頭に入れておくように。見張りの数を倍にし、不審な者を見かけたらすぐに知らせろ。だが、決して無理な戦闘は避け、命を第一に考えろ」と、苦渋に満ちた表情で、最大限の警戒を促すことしかできなかった。村全体に、これまで感じたことのないほど重く、息苦しい空気が漂い始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ