第10話 聖都への旅路-3
霧が薄く漂う朝の森。鳥のさえずりもまだ始まらぬ、微睡の中。
ライは目を覚ました。気配を感じたわけではない。ただ、目を閉じたまま意識が浮上し、起きるべき時が来たと直感した。
結界の光はうっすらと消えかけていた。すでにルシアは目を覚ましており、焚き火の灰をそっとかき混ぜている。
「……おはようございます、ライ様」
「すまない。いつの間にか寝てしまった」
「いえ、大丈夫です。体を休ませてください」
ライは立ち上がり、背を伸ばす。身体の節々に疲労が残っていたが、眠る前よりは幾分、動きやすい。
朝露に濡れた地面を確認しつつ、昨日の足跡を注意深く観察する。
「……追跡はなさそうだな」
そう呟いて、腰から地図を取り出した。羊皮紙には、メイン街道から外れた細い破線が描かれている。
それは、森の奥へと分け入るように、ゆるやかな弧を描いていた。
「この破線ルートを辿る。森を回り込む形だが、街道を通るよりは安全だろう」
「わかりました…」
小さく頷き合い、二人は荷をまとめた。
陽がまだ低いうちに出発しようと、焚き火は焚かない。空腹は、干し肉と水で誤魔化す。
湿った草を踏みしめながら、ライとルシアは再び森を進み始めた。
太陽は、まだ森の高い木々の向こうにある。
破線ルートを辿って進むうち、森の空気は次第に変わり始めていた。
落ち葉を踏みしめる足音が重く響き、風が止む。
「……風が、止まっています」
ルシアが囁く。その声音に、不安が滲んでいた。
次の瞬間──地響き。
森の奥から何かが迫ってくる。
木々を薙ぎ倒すような轟音。土を蹴り、蔓を巻き上げながら、巨体が飛び出した。
「……イノシシ、か」
否、それはもはや獣の域を超えていた。
黒い剛毛、岩のような筋肉、刃のように湾曲した二本の牙。
目は狂気を孕み、唸り声とともに突進してくる。
「三体……いや、四、五……群れか。しかも──」
《血牙のイノフォーン Lv70》
《大牙の猪 Lv 65 ×4》
「……レベル、70」
ルシアの声が震える。
この森で想定される敵は、通常せいぜいLv30台。
それを遥かに凌駕する個体が、しかも複数、徒党を組んで現れるなど──明らかに異常。
獣系の魔物は、特に森においては脅威となる。なぜなら彼らは、森そのものと同化して動く。
木々の間を縫い、匂いを消し、音を殺し、気配さえも覆い隠す。
加えて、森という地形そのものが彼らに味方する。枝葉の障害、足場の不安定さ、光の届かぬ死角。
それらすべてが、こちら──外部から来た者にとっては“罠”となる。
完全に、アウェイ。
しかも、相手は五体。
中でもひときわ巨躯を誇る“イノフォーン”は、ただの高レベルモンスターではない。
──あれは、ネームドエネミーだ。
ネームドエネミーは、同レベル帯のモンスターとは比較にならない。
討伐に挑むには、同レベル以上のプレイヤーでパーティーを組めば勝てる可能性がある。それが常識だった。
「囲まれる。ルシア、後ろに!」
ライは《無銘の黒》を引き抜いた。
黒刃が、血を求めるように唸る。まるでその身に意思が宿っているかのように。
「聖なる意志よ、我らの行く先を照らし、闇を退けよ──導きの名において」
「《女神の加護》」
ルシアの詠唱が終わると同時に最前の一体が突っ込んでくる。その足元──踏み込みの瞬間、蹄がわずかに沈む。
【弱点捕捉の心得】によりその一瞬の隙が光の点として輝く。
「そこだ!」
ライの剣が、蹄の付け根を穿った。
黒刃が肉を裂く。次の瞬間、刃身が淡く脈打つように光る。
──【胎動】発動。
斬撃とともに、猪の血が黒刃に吸い込まれた。
それは物理的な現象ではない。血肉の“何か”が、剣と共鳴し、黒いオーラとなってライの体内へと還元されていく。
「っ……!」
筋肉が熱を帯びる。視界がわずかに澄む。反応が、速くなる。
ライは剣を振り続ける。
《弱点捕捉》の心得が、敵の動きを補足し、急所を示す。
《胎動》が、討つたびに力を蓄える。
次の一体も、牙を突き立てようと迫るが──
それより一瞬、ライの踏み込みが速かった。
「──死ね!」
黒刃が突き刺さり、二体目が倒れる。
熱が迸り、感覚が研ぎ澄まされていく。
「……ふっ」
次の二体が同時に左右から攻めてくる。が、遅い。ライの足が地を離れ、側面から駆け抜けるように跳び込む。
【弱点捕捉】によって二匹の首筋を繋ぐ光の予測線が浮かび上がる。
その線に沿って、【胎動】と称号《森の猟師》によって底上げされた攻撃力で、ライは二体の喉を同時に切り裂く。
黒刃が描いたのは、ひとつの弧。
斬撃は寸分違わず、致命点を正確になぞり──獣たちはそのまま地へと崩れ落ちた。
ぬかるむ音。地に染みる血の匂い。
ライの肩が呼吸で荒く上下する。
そのときだった。
刹那、ライの動きが止まった。
剣を振り抜いた反動で、体勢がわずかに崩れる。
脈動する【胎動】による過負荷が、筋肉に鈍い痺れを残していた。
──その隙を、《血牙のイノフォーン》は見逃さなかった。
体を唸らせ、準備体制に入る。
「──っ!危ない!!彼を守って!」
ルシアの手から光が放たれ、ライとルシアを覆う薄い光の膜が形成されるが…
咆哮。
それはただの咆哮ではなかった。
空気が震え、鼓膜が痛む。膝が一瞬、軋んだ。
ルシアが咄嗟に貼った結界が音を立てて崩れる。
「くっ……!」
【状態異常:威圧】
【《沈着》により抵抗しました】
だが一瞬の隙を突いて、イノフォーンが突進してくる。他の猪の比ではない速度と質量。
森の木々をなぎ倒しながら、殺意だけを載せて。
ライは一歩、横へ跳ぶ。
間に合わない──!
避けきれず、肩が掠めただけで吹き飛ばされた。
地面を転がり、肺が空になる。
「ライ様!」
ルシアの悲鳴。だが今は、彼女に構う余裕はない。
《無銘の黒》を支えに起き上がる。肩が灼けるように痛む。だが──剣は、まだ握れている。
イノフォーンが旋回する。その牙は赤く染まり、唾液が地面を焼くように落ちている。
(一撃で決めるしかない)
【胎動】により、心拍が異常に早くなる。筋肉が限界を超えて唸る。
「うああああああぁぁぁ──ッ!!」
イノフォーンが地を蹴る。突進。
ライは真正面から構えた。
「封滅の…剣!!」
風が裂け、牙が迫る。
「────ッ!」
黒く唸るオーラを纏った刃と牙がぶつかり、悲鳴のような音を響かせる。
瞬間──、黒い光が爆ぜた。
耳をつんざくほどの衝撃音。衝突の衝撃が地を揺らし、木々を吹き飛ばす。
刃は──貫いた。
黒の一閃が、獣の巨体を真正面から裂いた。
──[レベルアップ:23→29]──
──[HP全回復]──
森は再び静けさを取り戻していた。
巨体の獣たちは、すべて地に伏している。
ルシアは呆然とそれを見下ろし、ぽつりと呟いた。
「……まさか、一人で……」
ライは《無銘の黒》を振るい、血を振り払う。
黒刃は、さきほどよりも僅かに重々しく、だが鋭さを増しているようにも感じられた。
「その剣呪われて……いませんよね?」
「……さあな」
ライは苦笑交じりに答える。
プレイヤーだった頃にはなかった“違和感”。
力に浸るほど、意識の奥に黒い波が押し寄せてくる。
(精神に……干渉してくる)
力を得る代償として、どこか自分が獣に近づいていくような感覚を覚えた。
(それはそうと、ネームドエネミーの出現…この先に何かあるのか?)
ライは顔を上げ、森の奥を見据える。
そこから漂うのは──石灰と、古びた油の匂い。
「……何かの匂いがする。油と、石灰と……人工物の匂いか?」
風向きが変わった。匂いは、森の奥から漂ってくる。
ライはその方向を見据え、静かに呟いた。
「……行ってみるか」
ルシアが頷く。
血の匂いを拭いながら、ライは微かな風の向きに意識を向けていた。
湿った土に混じって、明らかに人工的な香りが漂っている。
《胎動》の余韻がまだ体に残っている。血が巡り、筋肉は冴えている。
「この先に何かある。罠はないと思うが、油断はするな」
「わかりました」
二人は草を踏み分け、匂いの源を辿っていく。獣道のような細いルートが、ほのかに傾斜しながら続いていた。
──数分後。
視界が、開けた。
それは唐突だった。密林の帳が終わりを告げ、木々が断ち切れた先に広がる一帯。
広場のような空間に、それはあった。
「……神殿……?」
ルシアが息を呑む。
そこに建っていたのは、石造りの建造物──いや、かつてそうであったものの“残骸”だった。
屋根は崩れ、柱は斜めに裂け、苔と蔦が全体を覆っている。
それでも基礎はしっかりと残り、構造は明らかに人工的なものだった。
「こんな場所に、建造物が……」
ライは周囲を警戒しながら、ゆっくりと足を踏み入れる。
石畳の一部は崩れ、地面に吸い込まれていた。だが中央に向かってわずかに傾斜があり、それが意図的に設計された空間であることを物語っている。
「祈りの場、か……」
ライの独白に、ルシアがかすかに頷く。
「この意匠……古アルケイディアの様式に似ています。おそらく、王政期以前の建築です。記録が残っていないはずです……」
「なるほどな。地図に載ってなくて当然か」
「ええ……でも、どうしてこんな深い森に」
風が、また吹いた。今度は、神殿の奥から。
ライの背筋に、わずかな寒気が走る。
(……妙だ)
建物が風を通すのは自然だ。だが、この風には──
どこか、意志のようなものを感じた。
「開けているし今日はここで休むか」
「……はい」
二人は、神殿の影──まだ屋根の一部が残る場所に腰を下ろした。
石の温度は冷たかったが、森の湿気を逃れるにはちょうどよかった。
ライは再び剣を膝に置き、眼を閉じる。
日が傾き、神殿跡の影が長く伸びる頃。
ルシアは崩れた壁面に近づき、指先で苔を払い始めていた。
露わになった石の表面には、微かに刻まれた文字が並んでいる。
「……やはり、この文体。古アルケイディア語です。しかも、かなり初期のもの」
ライは焚き火を避けるように腰を下ろしながら、それを横目に見ていた。
「読めるのか?」
「一部だけ、ですが。……これは“聖域”という語。隣は、“律せられし扉”……この神殿、内部に隔離された区画がある可能性が高いです」
「探索する気か?」
ルシアは迷うように視線を落とし、しかし次の瞬間には軽く頷いた。
「私の勘なのですが……この建物は教会にとって非常に重要な建物な気がするんです」
「……悪いが、今はその“もしも”を追う余裕はない」
ライの言葉は冷たくも、現実的だった。
「敵がここを追ってくる可能性は高い。夜になる前に動けるようにしておくべきだ。少なくとも、内部調査は後回しだな」
ルシアは少しだけ視線を伏せたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「……はい、分かりました。いつか、改めて訪れたいです」
「それまで、この神殿が残ってるといいな」
冷たく言いながらも、ライは彼女の真面目な好奇心にどこか懐かしさを覚えていた。
(昔の俺なら、間違いなく行ってただろうな)
焚き木を炊いて夕食の準備をする。空は次第に暗くなり、風は静かに木々を揺らしていた。




