第2話 畑仕事
同じく大幅に改稿しました。
「まさか……本当にプレイヤーか!?」
アンバーが声を荒らげるよりも早く、ライは音のした村の広場へと駆け出していた。Lv2の農民の身体は思うように速度が出ずもどかしい。
だが、彼の思考は既に、かつての戦場のように高速で回転を始めていた。
広場にたどり着くと、そこには家畜の小屋に群がる村人たちの姿と、その中心で唸り声を上げる一匹の獣がいた。 森狼。通常の狼よりも一回り大きく、その灰色の毛皮はところどころ黒く変色し、爛々と光る両目には凶暴な飢餓の色が浮かんでいる。夕闇に紛れて村に侵入し、手近な家畜に牙を剥いたらしい。
「こん畜生! 村から出ていけ!」
「誰か、猟師を呼んでこい!」
数人の若い自警団員たちが、錆びついた槍や古い剣、あるいはただの棍棒を手に、松明の明かりを頼りに森狼と対峙している。だが、その動きは明らかに恐怖で硬直し、連携も取れていない。ただ闇雲に武器を振り回しているだけで、森狼の素早い動きに翻弄され、逆に追い詰められている始末だ。 シェリンや他の女子供たちは、家々の戸口から恐怖に顔を青くしてその光景を見守っている。
(まずいな……あれじゃただの烏合の衆だ)
ライは冷静に戦況を分析する。森狼の動きには明確な癖があった。右前足に体重をかける瞬間に一瞬の硬直があり、そこが最大の攻撃の好機。しかし、自警団員たちはそれに気づく様子もなく、ただ正面から力任せに攻撃を仕掛け、森狼の鋭い爪と牙の餌食になりかけている。
(あそこからじゃ槍は届かない。誰かが正面でヘイトを買って、残りが側面と背後から同時に攻撃を加えれば仕留められるはずだ…!)
的確な戦術が次々と脳裏に浮かぶ。しかし、声に出して指示を飛ばすことは躊躇われた。今の自分は、ただの農民。彼らより戦闘経験が浅いはずの自分が、なぜこれほど的確な指示を出せるのか、怪しまれるのは確実だろう。そして何より、このLv2の身体では、自分が前に出て手本を示すことすらできない。 知識と経験がありながら、それを実行する術がない。かつてのトップランカーにとって、これほどの屈辱と無力感はなかった。
森狼が、自警団の一人の若者の腕に噛みつき甲高い悲鳴が上がる。
「くそっ、誰か助けてくれ!」
仲間が慌てて槍を突き出すが、森狼は巧みにそれをかわし、さらに深く牙を食い込ませる。
その時だった。
「そこだ! 目を狙え!」
野太い声と共に、村の猟師である壮年の男が、手製の弓を引き絞り矢を放った。矢は正確に森狼の片目を射抜き、獣は苦悶の咆哮を上げ、 動きが鈍る。
「今だ! やっちまえ!」
恐怖を振り払うように、数人が一斉に森狼に飛び掛かり、めちゃくちゃに武器を叩きつける。悲鳴を上げ、森狼はついに動きを止めた。
広場には、荒い息遣いと、負傷者の呻き声、そして家畜の怯えた鳴き声だけが残された。家畜数頭が犠牲になり、自警団員も数名が手傷を負っている。村人たちは、辛うじて勝利を収めたものの、その顔には安堵よりも疲労と、そして新たな脅威への不安が色濃く浮かんでいた。
ライは、その光景を黙って見つめていた。
(群れからはぐれた一匹だろうな。もし複数で来られていたら……この村は終わりだ)
翌朝、エルム村にはまだ昨夜の森狼襲撃の生々しい爪痕と、重苦しい緊張感が残っていた。壊れた家畜小屋の柵、広場の土に染みついた獣の血の臭い、そして村人たちの顔に浮かぶ疲労と不安の色。 ライは、昨夜味わった強烈な無力感を胸の奥にしまい込み、いつものようにシェリンと共に畑へと向かった。その足取りは、どこか現実感が希薄だった。
「ライ、昨日は大丈夫だった? 怪我とかしてない?」
隣を歩くシェリンが、心配そうに顔を覗き込んでくる。彼女自身も、昨夜の出来事に怯えていたはずだが、努めて気丈に振る舞っているようだった。
「……ああ。大丈夫だ…俺は遠くから見てただけだったしな」
ライは答える。今の自分にできることは限られている。だが、昨夜の出来事で、何もせずにただ現状を受け入れるわけにはいかないという思いが、彼の胸の内で静かに、しかし確実に燻り始めていた。
畑に着き、いつものように鍬を手に取る。その無骨な木の柄と、鉄の刃先。それが、今の自分の唯一の「武器」であり、そして「道具」だった。昨夜、この手で何もできなかった無力感が、ずしりとした重みとなって蘇る。
(この身体では、戦うことすらままならない。このままじゃいけない。何か……何か、今の俺にできることを見つけないと)
彼は、ただ漫然と鍬を振るうのではなく、自身の身体の動き一つ一つに意識を集中させ始めた。筋肉の動き、力の伝達、呼吸のリズム。それはまるで、かつて戦場で敵の動きを寸分違わず分析し、最適解を導き出してきた時のように。今度は、この「ライ」という農民の身体と、目の前の「土」という未知の対象を、徹底的に観察し、理解しようと努めた。土の硬さ、湿度、鍬を振り下ろす角度、踏み込む足の力加減。彼は全ての要素を細かく調整し、その結果を身体で感じ取り、記憶していく。それは、もはや単なる農作業ではなかった。ライにとって、それは新たな環境での生存戦略の模索であり、失われた力を取り戻すための、あるいは全く新しい力を手に入れるための、最初の足掻きでもあった。 その姿は、シェリンの目には、いつもよりずっと真剣に、そしてどこか鬼気迫る様子で畑仕事に取り組んでいるように映った。
(まずは、この世界の理を知る。そして、この身体で何ができるのかを……)
「ライ兄ちゃーん! 何してるのー?」
不意に、背後から快活な声が飛んできた。振り返ると、赤毛をポニーテールにした少年と、栗色の髪をおさげにした少女が、小さな籠を手にこちらへ駆けてくるところだった。確か、ルカとミーナという名の村の子供たちだ。
「畑仕事だよ」
そう答えるライに、子供たちは臆することなく近づいてくる。
「ねえねえ、ライ兄ちゃん、昨日ね、森狼が出たんだって? 大丈夫だった?」
ミーナが心配そうに顔を覗き込む。
「……俺は無事だった。村もすぐに復興するよ」
「ふーん。でも、ライ兄ちゃん、なんだか昨日からずっと難しい顔してるよ? 土とケンカでもしてるの?」
ルカが無邪気にそう言って、ライが耕したばかりの畝を指さした。
ライは、子供たちの屈託のない瞳を見返す。かつての自分なら、NPCの子供など風景の一部としてしか認識しなかっただろう。だが、今は──。
「土と、話をしているんだ」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「えー? 土とお話できるの? すごーい!」 ルカが目を輝かせる。
「お兄ちゃん、じゃあ、このお花がなんて言ってるか分かる?」
ミーナが足元に咲いていた小さな野花を指さす。
ライは、その小さな花に視線を落とした。以前なら一笑に付したであろう子供たちの言葉が、なぜか今の彼には素直に響く。彼は、花ではなく、その花が根差す土にそっと手を触れた。
「この土は、少し痩せてる。えっと…そうだな…花は“喉が渇いた”って言ってる…気がする」
「へええ! そうなんだ! じゃあ、お水あげなきゃ!」
子供たちは、納得したように頷き、小さな桶に水を汲んでこようと駆け出す。その純粋な反応に、ライの胸に、これまで感じたことのない温かい何かが込み上げてくるのを感じた。
それは、プレイヤーとして戦いに明け暮れていた頃には決して得られなかった、「生きている」という確かな手応え。そして、このエルム村の日常の中に、確かに存在する「命」の輝き。
この時、ライは初めて肌で理解したのかもしれない。 NPCもまた、感情を持ち、自分の意志で行動し、この世界で懸命に「生きている」のだ。 彼らは決して、経験値やアイテムを落とすだけのデータなどではないのだ、と。