第1話 鍵の夢
黒い。
ただ、黒い。
音も、匂いも、感触すらもなく、ただそこに“在る”ということだけが異様に強調された空間。
(死んだ……のか?)
自分の呼吸すら聞こえない。
ただ、“自分という認識”だけが、この虚無に浮かんでいる。
やがて、後悔の波が胸を満たした。
……俺の悪癖が出た。
“強敵”を前にすると、倒したいという欲が勝ってしまう。
レベルが100以上も違う相手に勝てるはずがないのに、あの瞬間、微かな勝機が見えたような気がしてしまった。
あの時、ただ逃げていれば──。
「あなたは死んでなどいませんよ」
その声とともに、“それ”は現れた。
闇の中に現出する銀の輪郭。
空間そのものが形を成したかのような、女の姿。
その瞳は、夜空の星々をそのまま映したように輝き──
それでいて、一切の感情を宿していなかった。
「お前は……誰だ? なら俺は……なぜここに?」
「私の名は……」
その瞬間、空間に音もなく“ひび”が入る。
名を聞いたはずなのに──理解できない。
確かに音は聞こえた。言葉として認識もした。
なのに、それが意味として脳に届かない。
まるで、存在そのものがこの世界に“許されていない”かのように。
「今……なんて言った?」
「そう。あなたには私の“名”が聞こえないのですね……」
彼女は悲しげな表情を浮かべ、それでも慈しむような微笑を見せる。
「い、いや……聞こえはした。会話もできてる。ただ……名前だけが、どうしても……」
「今の私には、この世界に影響を与えるほどの干渉力が残されていないのです」
その声に、遠い悲しみが混じっていた。
「本当は、もっと多くを伝えたかったのですが……」
周囲の闇が、音もなく崩れ始める。
裂けるように、砕けるように──世界の限界が近づいていた。
「……時間がありません」
その言葉だけは、はっきりと意味を持っていた。
彼女は手を差し出し、ライの前に二つの“鍵”を示す。
一つは黒鉄の鍵。
重く、冷たく、触れる者を拒むような気配を纏っていた。
もう一つは銀白の鍵。
柔らかな光を湛え、どこか“赦し”と“希望”を感じさせる雰囲気。
「いつか使う時が来るでしょう。その時、あなたは──」
言葉の最後が掠れ、世界が砕ける。
そして、世界が崩れる直前、ライは確かに“それ”を聞いた気がした。
──私の子供たちを、どうか……
視界が急速に収束する。
光も音も飲み込まれ──




