第21話 白昼の逃走劇
ライは振り向かず、道の脇へと駆け出す。
古びた塀を飛び越え、小さな商家の脇道を滑り抜け、裏路地の迷路へ突入する。
入り組んだ建物の合間、行き止まりすれすれの通路──石の隙間を蹴るたび、風が加速していく。
(……なんだ、これ……身体が、軽い……?)
《称号【逆境】の効果により、回避性能・移動速度上昇中》
(なるほど……これだけ追い詰められて、ようやく発動するのかよ……!)
さらに視界の端に、淡く文字が浮かんだ。
《【心得:素早い身のこなし 】を会得しました》
「【素早い身のこなし】発動!!」
逃げている今にベストタイミングでの心得の会得。
迷う暇などなかった。ライは反射的にその心得を起動し、疾風のごとく、ライは裏路地を駆け抜ける。
足取りは軽く、無駄のない動きで石畳を滑るように走る。
その背後では、金属音と共に追跡者の気配が確実に迫っていた。漆黒の外套を纏う審問官たち──とりわけ、ジェネルの足音が鋭く耳に届く。
ライは懐から火球のスクロールを一枚、引き抜いた。
「燃えろ……!」
そして、後方の壁に向けて投げるように発動する。
──ゴォッ!
爆音が路地を揺らし、黒煙と火花が瞬間的に視界を塞ぐ。
──ジェネルの【白刃一閃】の影響により、光の魔力が全身を走っている。まるで内側から肉体を焼かれるかのように、魔力が暴れ狂っていた。
だが、スクロール魔法に自身の魔力は不要。あらかじめ術式が封じられており、意志と触媒さえあれば、起動は可能。
(これで……撒け──)
「そこだ」
冷たい声が、煙の向こうから届いた。
《盤面把握》。ジェネルの持つスキルによって煙の中でも、ライの位置は筒抜けだった。
「私についてこい!」
ジェネルは連れ従う審問官らに命じ、一歩も迷うことなく煙幕の中を進み、距離を詰めてくる。
(くそっ……撒けねぇ!?)
ライはすぐに軌道を変える。
細い路地から大通りへ。
ライはすれ違う住人にぶつかる寸前で身を翻し、わざと露店の荷車を倒す。食材が地面に転がり、怒号が響いた。だが、その騒乱も一瞬で後方に流れていく。
再びポケットから火球のスクロールを取り出し、壁のすぐ脇、積まれた木箱の上で起動させた。
「燃えろ」
ごう、と赤い炎が噴き出し、空気が熱を含んで膨れあがる。狭い路地に煙が立ち込め、追跡者の進路を阻む──はずだった。
(……足止めにはならない。ジェネルの目的は“確保”。それが達成されるまで、炎でも瓦礫でも関係ない)
それでも時間は稼げた。
迷路のような路地を抜け、石造りから木造へと、町の景観が変わっていく。
視界が開け、見慣れた看板が遠目に見える──
《東門区》。
旅人と傭兵が入り混じるこのエリアは、他の区画に比べて建物が古く、木造が多い。狭く歪んだ通りがいくつも並び、戦闘向きではないが、逃走にはうってつけだった。
ライは角を曲がりながら、再び火球のスクロールを取り出した。
(これが…ラスト一回!)
建物の壁に向けて── 一閃。
炎が爆ぜ、火花が飛び散り、木造の家屋が瞬く間に燃え上がる。
「くそっ……!」
火の手を見た他の審問官たちが足を止める。街の混乱、火災、通行の遮断。追跡の足を止めざるを得ない。
「火を消せ! 周囲に民がいる!追跡は私一人で十分だ!」
ジェネルが指示を飛ばす中、ライは足を止める。
──もう逃げ道はない。
行き止まり。
目の前には建物。後ろからは“殺意”。
彼は決意を込めて、左右の建物の壁を蹴り、屋根へと跳び乗った。
高所。見晴らしのいい位置。だが、それは同時に“狙われる”場所でもある。
──それでも。
(あの通りの向こう……あそこまで、跳べれば……)
体は限界に近かった。だが、ジェネルの追撃はすでに目前。
「どうやら、もう逃げ場はないようだな。大人しく拘束されろ」
ジェネルの声が低く響く。すでに屋根に登り、背後数mまで迫っていた。
(このままじゃ……やられる。なら……)
思考が閃光のように加速する。
(あの時と違って、光の魔力が身体に充満してる今なら──【神威】を発動できるかもしれない)
駆け出し跳躍する。大通りを超えてその向こう側へ。
ジェネルも追従するように飛ぶ。
(ここだ。ここで決めるしかない。逃げ場のない”空中”で、【神威】を発動できれば…!)
ライは空中で突如として体を捻り、左手をジェネルに向けてかざし叫ぶ。
「神威──ッ!!」
ライの左手に雷のような光が走り、周囲の空気が振動する。
「──ッ!!」
微かに神格の気配を感じ、ジェネルは空中で身構える。
──だが。不発。
魔法が発動する兆候は見えたものの、左手の光はシュウッと何事もなかったかのように霧散する。
魔力は、空を裂かず、ただ宙に溶けた。
(……ダメか。)
そのまま、ライの背後に建物の壁が迫る。
(どちらにせよ助走が足りなかったな……)
──ドォン!
乾いた衝撃音とともに、ライの身体が壁に激突する。肺の中の空気がすべて抜けた感覚が走り、視界が一気に霞んだ。
地面に転がり落ちたときには、もう身体の感覚は曖昧だった。
視界の端に、銀の閃きが見える。 その中心に立っていたのは──ジェネル。
仮面の奥の眼差しが、射抜くようにこちらを見ていた。
(ここまで、か……)
呼吸ひとつにすら痛みが走る。もはや立ち上がることもできない。
そして──
世界が、黒く沈んでいった。




