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第9話:知らない顔

「千秋、本当に大丈夫なの?」


アトリエで資料をチェックしながら、玲奈は優しく尋ねた。雨の日から一週間。千秋は必死に仕事に没頭することで、心の痛みを紛らわせようとしていた。早朝から深夜まで、休憩も取らずに作業を続ける日々。それは、誰の目から見ても、明らかな逃避だった。


作業台の上には、普段以上に丁寧に仕上げられた試作品の数々。完璧な刺繍、緻密な裁断、精密な縫製。その一つ一つに、通常以上の時間がかけられているのは明らかだった。


「え?」千秋は手元の刺繍から目を上げる。「何が?」


「全部よ」玲奈が溜め息をつく。「いつもより丁寧すぎる仕事ぶりとか、休憩も取らないとか。それに...」


玲奈の目が、千秋の作業台の隅に置かれた携帯電話に向けられる。画面には、篠原グループからの未読メッセージの通知が並んでいた。全て、打ち合わせに関する業務連絡。そして、それらは全て蓮からのものだった。


「そんなことないわ」


作業に目を戻そうとする千秋の手を、玲奈が優しく押さえた。


「ねえ、聞いて。過度な完璧主義は、時として逃避になることもあるのよ」


その言葉に、千秋の手が僅かに震えた。刺繍針が、布地に突き刺さったまま止まる。


「私は、ただ...」


「風間さん」


二人の会話を遮るように、さくらの声が響いた。彼女は今日も着物姿で、その立ち居振る舞いに凛とした美しさが漂う。しかし、その表情には何か心配そうな影が見えた。


「さくらさん」


「お話、少しいいですか?」


アトリエ中庭の藤棚の下。さくらは静かに語り始めた。


「兄様のこと、ご存知でしょうか」


「え?」


「祖母の影響で、本当は服飾の道に進みたがっていたんです」


その言葉に、千秋は足を止めた。知らなかった事実に、胸が締め付けられる。



「でも」さくらは続ける。「家業を継ぐために、その夢を諦めた。それでも、布地のことになると、子供のように目を輝かせるんです」


千秋は、深夜のアトリエで見た蓮の表情を思い出していた。布地に触れる時の優しい指先。刺繍を見つめる真摯な眼差し。それは確かに、ただの経営者のものとは違う輝きを持っていた。


「前の婚約者の方は」さくらの声が少し震える。「その兄様の一面を、理解できなかった。仕事人間だって嫌がって」


言葉の続きに、苦い記憶が込められているのが分かった。


「でも、風間さんは違う」さくらが千秋の手を取る。「兄様の仕事への想いも、夢を諦めた痛みも、全て分かってくれている」


「さくらさん...」


「だから、諦めないでほしいんです」さくらの目に、涙が光る。「兄様は、きっと風間さんのことを」


その時、アトリエのドアが開く音が響いた。


「さくら」


蓮の声に、二人は振り返る。今日も完璧なスーツ姿。しかし、その表情には普段見せない疲れが滲んでいた。


「ここにいたのか」蓮は冷静な声で言った。「帰る時間だ」


「兄様...」


「さくら」蓮の声が強くなる。「もう、余計なことは言わないで」


その言葉には、明らかな警告が込められていた。蓮は、妹が何を話そうとしていたのか、察していたのだろう。


さくらは千秋の手を強く握った。


「風間さん」彼女は小さく囁く。「私、風間さんに兄様を託したいんです」


その言葉を残して、さくらは兄の後を追った。


千秋は、その場に立ち尽くしていた。

頬を伝う一筋の涙が、彼女の複雑な想いを物語っている。


「千秋」


後ろから差し出された手帳を見ると、そこには一枚の古い写真が挟まれていた。玲奈が、蓮とさくらの祖母から預かった思い出の品だという。


「これ...」


「さくらさんの写真を整理してたら出てきたの」玲奈が説明する。「十年前の、篠原家のアトリエだそうよ」


黄ばんだ写真には、若かりし日の蓮が布地を真剣な眼差しで見つめている姿があった。まるで今の千秋のように。その表情には、純粋な憧れと、何かを諦めざるを得なかった痛みが混ざっている。


「私たちって」千秋は写真を胸に抱きながら呟いた。「本当に、似ているのかもしれない」


「そうね」玲奈が優しく微笑む。「だからこそ、分かり合える部分もあるはず」


千秋は静かに頷いた。

写真の中の蓮は、今の彼とは違う表情をしていた。それは、夢を持っていた頃の、純粋な眼差し。


アトリエの外では、夕暮れの空が赤く染まっていく。

千秋は決意を固めていた。


「玲奈」


「ん?」


「私、篠原様の本当の想いを、知りたいの」


その言葉には、もう迷いはなかった。たとえ答えが痛みを伴うものだとしても、真実を知る勇気が必要だと、彼女は悟っていた。


「やっと、素直になれたのね」玲奈が千秋の肩を抱く。「きっと、それが正しい選択よ」


アトリエに残る最後の陽射しが、作業台の上のドレスを照らしていた。それは完成には程遠い姿だったが、確かな想いが込められていた。


この一着のドレスに込められた想いが、いつか誰かの心に届くことを願いながら、千秋は再び針を手に取った。


その夜、千秋は遅くまで作業を続けていた。

写真を見て気付いたことがあった。蓮の祖母が使っていたという技法の痕跡が、古い着物の端々に見られるのだ。


「これなら...」


千秋は新しいデザイン画に向かった。蓮の祖母の技法を現代的にアレンジし、さらに自分の技術を加える。それは、まるで過去と現在を紡ぐような作業だった。


アトリエの静けさの中、千秋の針はリズミカルに動き続ける。

一針一針に、新しい想いを込めながら。


(篠原様)


心の中で、その名を呼ぶ。


(あなたの諦めた夢も、これから叶えようとする新しい夢も、全て受け止めたい)


窓の外では、月が雲間から顔を覗かせていた。

それは、まるで千秋の新たな決意を見守るかのようだった。


「千秋」


深夜、アトリエに残っていた玲奈が、帰り支度をしながら声をかけた。


「ねぇ、一つ訊いていい?」


「なに?」


「あなたは、篠原様の何に惹かれているの?」


その質問に、千秋は初めて真正面から向き合った。


「仕事への真摯さ、かな」彼女は静かに答えた。「でも、それだけじゃない。強さの中にある優しさ。完璧を求めながらも、時々見せる弱さ。そして...」


「そして?」


「私と同じように、何かを探している人だって分かったから」


玲奈は満足げに頷いた。


「それなら、大丈夫よ」彼女は言った。「その想い、きっと届くはず」


アトリエの灯りが、夜空に浮かぶ。

新しい朝が来るまで、まだ少し時間がある。

その時間を、千秋は大切な想いを形にすることに使うつもりだった。


(つづく)

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