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第8話:雨の帰り道

「退院されたんですね」


アトリエの打ち合わせ室で、千秋は蓮の顔色を確かめるように見つめていた。入院から二週間。予定通り退院し、今日から仕事に復帰したという。黒のスーツに身を包んだ姿は、病室で見慣れた姿とはまるで別人のようだ。完璧に整えられた身なりは、いつもの経営者としての威厳を取り戻していた。


「ご心配をおかけしました」


蓮の声は、病室で聞いた柔らかさを失い、再びビジネスライクな調子を取り戻していた。まるで、あの日々が夢だったかのように。あの時見せた弱さや、心の内も、全て幻だったのかと思わせる佇まい。


「では、ドレスの進捗状況を」


淡々と進む打ち合わせ。

二人の間には、どこか居心地の悪い空気が漂っていた。病室での会話が嘘のように、言葉は事務的で無機質。


積み上げられた資料の山。デザインの修正案。予算の見直し。全てが整然と並べられ、完璧に準備されている。それなのに、どこか大切なものが欠けているような気がして仕方ない。


千秋は時折、蓮の表情を窺っていた。確かに体調は良くなっているようだが、その目の奥には疲れの色が残っている。無理をしているのは明らかだった。


「風間さん」


片付けを終えようとした時、蓮が声をかけた。


「材料の買い付け、明日でしたよね」


「はい」


「私も同行させていただきたいのですが」


千秋は驚いて顔を上げた。


「でも、お体は...」


「大丈夫です」蓮は穏やかに微笑んだ。「それに、これが最後の買い付けになりますから」


その言葉に込められた意味を、千秋は理解していた。海外赴任まで、残された時間は少ない。そして彼は、その時間を大切に使おうとしている。それは仕事に対する責任感からなのか、それとも——。


***


翌日。

生地街を歩く二人の上に、突然の雨が降り始めた。

予報では午後から、とされていた雨雲が早めに流れ込んできたようだった。


「こちらです!」


千秋は咄嗟に蓮の手を取っていた。温かい感触に、自分でも驚く。長い指、柔らかな手のひら。病室で何度か触れた手だけれど、こうして強く握るのは初めてだった。

だが今は、雨宿り場所を探すことで精一杯だった。


古い問屋街の軒下。

二人は肩を寄せ合うように立っていた。

生地のサンプルを抱えた千秋の肩が、蓮のスーツの袖に触れる。

距離の近さに、心臓が早鐘を打つ。


# 恋は針先で


## 第8話:雨の帰り道(承前)


「申し訳ありません」千秋は少し距離を取ろうとする。


「風間さん」


蓮が千秋の腕を掴んだ。その手に、微かな力が込められている。


「あの日、言いかけたことは」


千秋の心臓が大きく跳ねる。病室での、中断された会話。あの時、言い切れなかった言葉。全てが、この雨音の中で蘇ってくる。


「私は...」


「もう、期待しないでください」


蓮の声は、優しくも冷たかった。その矛盾した声音に、千秋は戸惑いを覚える。


「この仕事が終わったら」彼は続けた。「私は海外で、新しいプロジェクトを始めます」


千秋は、自分の心が少しずつ凍っていくのを感じた。雨は次第に強くなり、石畳を叩く音が響く。その音が、まるで彼女の心を打ちつけるようだった。


「そうですか...」


精一杯の笑顔を作る。それが、今の彼女にできる精一杯のことだった。たとえ、その笑顔が引きつっているのを自覚していても。


「雨が...弱くなってきましたね」


千秋は空を見上げた。涙が零れそうになるのを、必死で堪える。雨は少しも弱くなる気配を見せていないのに。


(これが、現実なのね)


仕事以外に期待を持たないでほしいという彼の言葉。

海外への異動。

全ては、彼女の想いが届かないことを示していた。


冷たい雨が、軒先から滴り落ちる。その一滴一滴が、まるで時を刻むように思えた。残された時間が、こうして少しずつ流れ去っていく。


「次の問屋まで」


蓮の声が、現実に引き戻す。


「はい」


プロとしての表情を取り戻した千秋。

心の中で、小さな想いを封印しようとする。


(仕事に集中しましょう)


けれど、彼の隣を歩く足取りは、どこか重かった。

雨上がりの空は晴れていたのに。


アトリエに戻った後も、千秋の心は晴れなかった。濡れた服のまま、作業台の前に立ち尽くす。


「やっと戻ったのね?」玲奈が心配そうに声をかける。「随分と遅かったけど」


「ええ、少し」千秋は生地のサンプルを整理しながら答えた。「雨に降られて」


新調した生地たちも、雨に濡れて表情を変えている。シルクは艶を増し、レースは重みを帯び、それぞれが違った表情を見せていた。まるで、彼女の心そのもののように。


「そう」玲奈は千秋の横顔を覗き込んだ。「でも、それだけじゃないでしょう?」


「...どういうこと?」


「だって」玲奈は優しく微笑んだ。「千秋の目が、雨上がりなのに濡れているもの」


その言葉に、千秋は思わず頬に手を当てた。

確かに、頬は湿っていた。

それは雨の名残なのか、それとも——。


「私」千秋は絞り出すように言った。「仕事だって、分かってたのに」


「そう」玲奈が千秋の肩を抱く。「でも、それが恋ってものよ」


外では、新しい雨が静かに降り始めていた。

まるで、千秋の心を映すように。


窓ガラスを伝う雨粒を見つめながら、千秋は考えていた。

これから先、どんな道を選べばいいのか。

仕事という安全な距離を保つのか、

それとも——。


アトリエの中は、いつもと変わらない静けさ。

ミシンの音も、ハサミの音も、全ていつも通り。

けれど、千秋の心の中は、確実に何かが変わり始めていた。


夕暮れ時、玲奈が帰り支度をしながら言った。

「ねぇ、千秋。想いを伝えずに後悔するのと、伝えて断られるの。どっちが辛いと思う?」


その質問に、千秋は答えられなかった。

ただ、作業台に向かい、黙々と針を進める。

一針一針が、彼女の迷いを映しているようだった。


アトリエの灯りが、闇に浮かぶ。

そして雨は、まだ降り続いていた。


(つづく)

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