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第7話:心の距離

「これが、新しい案です」


病室で、千秋はデザイン画を広げた。入院から一週間。蓮は少しずつ体力を取り戻していた。病衣はスーツに戻り、彼の隣には相変わらず携帯とノートパソコンが置かれているものの、表情は幾分和らいでいる。


六月の陽射しが病室に差し込み、白いカーテンを通して柔らかな光が部屋を満たしている。この一週間、千秋は毎日のように病室を訪れていた。最初は単なる打ち合わせのつもりだった。しかし、日々重ねる会話の中で、彼女は蓮の新しい一面を知ることになる。


「予算内で、より美しいシルエットを実現するため、コルセットの構造を見直して...」


説明する千秋の横顔を、蓮はじっと見つめていた。日々の病室での打ち合わせは、気がつけば二人にとって大切な時間になっていた。ドレスの話をしながら、時には仕事の話に花が咲き、互いの価値観に触れ合う瞬間もあった。


時には、蓮が幼い頃の思い出を語ることもあった。祖母の仕事場で過ごした日々、伝統と向き合うことの難しさ、そして変革を決意した日のこと。それは、普段の彼からは想像もできない、柔らかな表情での語らいだった。


「風間さんは、本当に仕事が好きなんですね」


「え?」


突然の言葉に、千秋は説明を中断した。


「毎日のように来てくださって」蓮が続ける。「でも、いつも仕事の話ばかり」


その声には、かすかな寂しさが滲んでいた。それは、普段の蓮からは考えられない弱さを含んだ声音だった。


千秋は手元のデザイン画から目を上げ、蓮の横顔を見つめる。病室の光が、彼の表情に影を落としている。そこには、いつもの鋭さは影を潜め、どこか儚げな雰囲気さえ漂っていた。


「それは...」千秋は言葉を探す。「篠原様のご容態が心配で...」


「仕事だから、ですか?」


その問いには、何か試すような響きがあった。


「違います」


即答した自分の声の強さに、千秋は驚いた。その言葉は、心の底から自然と湧き上がってきたものだった。


「最近、気づいたんです」彼女はそっと視線を落とした。「私、篠原様の仕事への想いを見るのが、好きなんだって」


「風間さん...」


蓮の声が震える。その一言で、病室の空気が変わった。


「あの、これを」千秋は慌てて、手提げから小さな包みを取り出した。「玲奈おすすめの、漢方のお茶です。疲労回復に良いそうで」


唐突な話題の転換。しかし、それは千秋なりの精一杯の気遣いだった。


蓮の表情が、僅かに和らぐ。


「ありがとう」


普段は決して使わない砕けた言葉に、千秋は胸が跳ねる感覚を覚えた。二人の間に流れる空気が、少しずつ変化していく。


「風間さん」


刹那、蓮の指が千秋の手に触れた。温かい。その一瞬の接触に、千秋の心臓が大きく跳ねる。


「私に、期待しないでください」


「え?」


突然の言葉に、千秋は戸惑いを隠せない。窓から差し込む陽射しが、二人の間に長い影を作る。


「この前話した婚約破棄のこと」蓮は窓の外を見つめながら続けた。「あれ以来、私は決めたんです。仕事以外のことで、誰かを幸せにすることは、もうしないって」


千秋は息を呑んだ。その言葉の重さに、胸が締め付けられる。過去の出来事が、まだこれほどまでに彼を縛っているのか。完璧であろうとするが故の、深い傷跡。


「それに」蓮は千秋を見つめた。瞳には決意と、何か痛みのようなものが混ざっている。「私は、海外の案件で日本を離れます」


「でも、それは...」


千秋の言葉が途切れる。予想していなかった展開に、頭が真っ白になる。


「さくらのドレスが完成したら」蓮の声は決意に満ちていた。「全てが、終わるんです」


病室に沈黙が落ちる。

窓から差し込む午後の光が、二人の間に影を作った。時計の針の音が、異常に大きく響く。


「そうですね」


千秋は精一杯の笑顔を作った。それが今の彼女にできる、精一杯のことだった。頬が引きつるのを感じながらも、プロフェッショナルとしての表情を保とうとする。


「でも」彼女は付け加えた。「それまでは、私に仕事を任せてください」


「風間さん...」


「ドレスが完成するまでは」千秋は静かに、しかし芯の通った声で言った。「篠原様の、仕事のパートナーとして」


その言葉に、蓮は複雑な表情を浮かべた。安堵と懸念、そして何か言いたげな想いが、その瞳の中で交錯する。


「分かりました」彼はようやく答えた。「では、仕事の話を続けましょうか」


千秋は無言で頷いた。

デザイン画に目を戻しながら、彼女は自分の心の痛みと向き合っていた。


(これでいいの)

そう自分に言い聞かせる。

(これが、私にできる精一杯なの)


けれど、胸の奥で渦巻く想いは、もう止められそうになかった。仕事のパートナーとして。その言葉の裏に隠された本当の気持ちを、彼は感じ取っているのだろうか。


「このパーツの配置ですが」


蓮が指さした箇所に、千秋も目を向ける。二人の指先が、再び触れそうになる。

今度は千秋の方が、わずかに身を引いた。


これが正しい距離。

そう思い込もうとしても、心は確実に揺れ続けている。生地に針を落とす手つきにも、迷いが見え隠れする。


「風間さん?」


「あ、はい」


慌てて説明を再開する千秋。

けれど彼女の心は、もう完全には仕事に集中できていなかった。


来月には日本を離れる。

その事実が、重たい現実として彼女の心に のしかかる。


帰り際、病室のドアを開ける直前。

千秋は小さく、でも確かな声で呟いた。


「篠原様」


「はい?」


「私は」一瞬の躊躇い。言葉を選ぶように、僅かな間が空く。「仕事のパートナーとして、最後まで、全力を尽くします」


その言葉の裏に隠された想いに、気付いていたのだろうか。

蓮は静かに頷いただけだった。


病室を後にする千秋の背中を、蓮は長い間見つめていた。その視線の意味を、千秋は感じ取れていただろうか。


廊下を歩きながら、千秋は自分の胸の内と向き合っていた。

確かに、これは仕事だ。

一着のドレスを作り上げる、純粋な仕事の関係。


けれど——。


アトリエに戻った時には、既に夕暮れ時だった。

作業台に向かいながら、千秋は考える。


仕事のパートナーとして。

その言葉で自分の気持ちを封印しようとした。

でも、本当にそれでいいのだろうか。


窓の外では、夕陽が沈もうとしていた。

その茜色の光が、作業台の上の布地を染めていく。

まるで、千秋の揺れる心を映すように。


玲奈が、そっと千秋の肩に手を置いた。


「無理しなくていいのよ」


「私は...」


「本当の気持ちを、伝えてもいいんじゃない?」


千秋は黙って首を振った。

けれど、その仕草には強い意志は感じられない。


玲奈はため息をつきながら、ふと言った。

「あのね、千秋。人は時々、守ろうとして大切なものを失うことがあるの」


その言葉が、千秋の心に深く沁みていく。


アトリエに残る最後の光が、

千秋の作業台を静かに照らしていた。

そこには、まだ完成していない刺繍と、

まだ形にならない想いが、

確かに存在していた。


(つづく)

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