第55話:届かない言葉
「展示会まで、あと一日」
パリのアトリエで、千秋は最後の準備に追われていた。早朝から続く作業の中、窓から差し込む光が、完成した作品たちを優しく照らしている。
「これが」マリーが感動的な表情で。「最後の展示レイアウトですね」
中央には、さくらのドレスの写真。その周りを、伝統と革新の技法が物語るように取り囲んでいる。十年前の研究ノートから、現代への進化までが、一つの流れとして表現されていた。
「風間さん」マリーが心配そうに。「少し休憩を」
「ありがとう」千秋は微笑む。「でも、もう少しだけ」
その時、アトリエのドアが開く。
「おはようございます」
春樹が入ってきた。手には日本からの新しい連絡事項。
「実は」春樹が慎重に切り出す。「蓮から、連絡が」
千秋は息を呑んだ。
「展示会の成功を祈ると」春樹が読み上げる。「そして」
言葉が途切れる。
春樹の表情に、複雑な色が浮かぶ。
「そして?」
「帰国後の」春樹が続ける。「アトリエの件で、重要な提案があると」
アトリエに、期待と緊張が満ちる。
それは新しい展開を予感させる言葉だった。
「明日の展示会」春樹が真摯に言う。「きっと、大切な転換点になる」
千秋は黙って頷いた。
この半年間の集大成。そして、新しい始まりへの一歩。
「風間さん」マリーが資料を手渡す。「パリのメディアから」
そこには、展示会への期待を込めた記事の数々。伝統と革新の融合への注目。そして、日本の若手デザイナーの挑戦への関心。
「みんな」マリーが嬉しそうに。「本当に楽しみにしているわ」
その言葉に、千秋は身の引き締まる思いがした。
「それと」春樹が新しい封筒を取り出す。「さくらさんから」
写真が数枚。新しいアトリエの様子。そして、準備に忙しい蓮の姿。
「兄様」さくらからのメッセージが添えられている。「毎日、風間さんの帰りを」
その言葉に、千秋の胸が熱くなる。
「風間さん」春樹が静かに言う。「明日は、全てを」
「はい」千秋は力強く頷く。「この技法に込めた想いを」
作業は最終段階へ。
展示パネルの微調整。照明の角度。全てが、物語を紡ぐように配置されていく。
「ここに」千秋が指示を出す。「研究ノートを」
「そして」マリーが続ける。「現代への進化を示すように」
アトリエ全体が、一つの大きな物語を語り始める。
それは伝統と革新の歴史であり、同時に二人の歩みの記録。
その時、千秋の携帯が震える。
蓮からの直接のメッセージ。
『明日の成功を、心より』
短い言葉。けれど、その向こうに込められた想いが伝わってくる。
「風間さん」春樹が優しく声をかける。「返信は?」
千秋は少し考え、静かにキーを打つ。
『ありがとうございます。必ず、素晴らしいものに』
送信ボタンを押す指が、僅かに震えていた。
パリの空が、徐々に夕暮れに染まっていく。
アトリエの中は、まだ作業の灯りが続いている。
「風間さん」マリーが心配そうに。「もう、休んだ方が」
「大丈夫です」千秋は微笑む。「これが、最後の仕上げ」
展示会前夜。
全ての準備が、ようやく完成に近づいていた。
「さて」春樹が立ち上がる。「明日は早いですから」
マリーも片付けを始める。
「本当に、素敵な展示になりそう」
二人が去った後、千秋は一人アトリエに残る。
窓から見えるパリの夜景が、明日への期待を高める。
(篠原様)
心の中で、その名を呼ぶ。
(きっと、この想いを)
展示品たちが、静かに佇んでいる。
それぞれが、特別な物語を秘めているよう。
もう一度、携帯を見る。
蓮からのメッセージ。
その向こうにある、言葉にできない何か。
「明日」
千秋は小さく呟いた。
「全てを、形にしましょう」
パリの夜空に、星が瞬き始めていた。
それは新しい物語の予感のよう。
(つづく)




