第53話:揺れる決意
「このデザインが」千秋はスケッチを見つめていた。「まだ、何か」
パリのアトリエで、展示会まであと5日。早朝から、彼女は新しい技法の完成に向けて試行錯誤を続けていた。蓮の研究ノートの発見以来、より深い可能性が見えてきていた。
「風間さん」マリーが心配そうに近づく。「少し休憩を」
「ありがとう」千秋は微笑む。「でも、もう少しだけ」
パリの朝陽が、アトリエの窓から差し込んでくる。昨夜遅くまで作業を続けた布地が、光を受けて新しい表情を見せていた。
「それより」マリーが新しい資料を広げる。「パリのファッション誌から」
そこには、展示会への期待を込めた記事が並んでいた。伝統と革新の融合への注目。そして、日本の若手デザイナーの挑戦への関心。
「随分と」千秋が目を通す。「注目されてますね」
その時、アトリエのドアが開く。
「おはようございます」
春樹が入ってきた。手には、日本からの新しい連絡事項。
「実は」春樹が慎重に切り出す。「アメリカからの要請で」
千秋は息を呑んだ。
「技術提携の」春樹が続ける。「期間延長の打診が」
アトリエに、重い空気が流れる。
それは、彼女の決断を待つ言葉だった。
「まだ」春樹が優しく言う。「考える時間は」
「いいえ」千秋が遮る。「私の答えは、決まってます」
マリーは、そんな二人のやり取りを見守りながら、意味深な表情を浮かべていた。
「風間さん」マリーが静かに言う。「本当に、それでいいの?」
「はい」千秋はまっすぐに答える。「私の場所は、あのアトリエです」
その言葉に、春樹の表情が和らぐ。
「蓮も」春樹が微笑む。「きっと喜ぶでしょう」
その時、千秋の携帯が震える。
日本からのメッセージ。さくらからだった。
『風間さん、すごく素敵なニュースが!兄様が、新しいアトリエの』
メッセージを読み進めるうち、千秋の目に涙が浮かぶ。
「何かあったんですか?」春樹が心配そうに。
「いいえ」千秋は首を振る。「むしろ、嬉しくて」
さくらからの写真には、renovation中のアトリエが映っていた。そこには、蓮の姿も。作業の指示を出す彼の表情には、確かな期待が浮かんでいる。
「風間さん」春樹が優しく声をかける。「蓮は、あなたを」
その言葉の続きは、口にする必要もなかった。
「分かっています」千秋は布地に向かう。「だからこそ」
針を持つ手に、新しい決意が宿る。
これは単なる技法の完成以上の、何かを目指す作業。
「マリーさん」千秋が声をかける。「展示レイアウトの変更を」
「はい?」
「研究ノートのコーナーを」千秋の目が輝く。「もっと、中心的な場所に」
マリーは即座に理解を示した。
「完璧です。過去から未来への物語として」
作業は新しい活気を帯びる。
展示会まで残り5日。でも、もう迷いはない。
「水城さん」千秋が真摯に言う。「アメリカの件、お返事を」
「ええ」春樹が頷く。「蓮に、直接伝えましょう」
パリの空が、徐々に高く澄んでいく。
アトリエの中に、確かな決意が満ちていた。
「それにしても」マリーが感心したように。「風間さんの技術の進歩が」
確かに。研究ノートの発見以来、技法は驚くべき発展を遂げていた。蓮の研究を基礎に、千秋独自の解釈を加えることで、新しい可能性が見えてきた。
「これは」春樹が試作品を見つめる。「まさに、二人の想いが」
その言葉に、千秋は静かに頷く。
離れていても、確かに繋がっている絆。
アトリエの窓から、パリの街並みが見える。
十年前、蓮もこの景色を見ながら、同じ夢を追いかけていた。
「風間さん」マリーが嬉しそうに言う。「パリのみんなが、楽しみにしてます」
「ありがとうございます」千秋は深々と頭を下げた。「この期待に、必ず」
夕暮れが近づき、アトリエに夕陽が差し込んでくる。
長い一日が、また終わろうとしていた。
「風間さん」春樹が優しく声をかける。「今日は、ここまでにしましょう」
「はい」千秋は小さく頷く。「でも、もう少しだけ」
布地に向かう手に、迷いはない。
むしろ、確かな希望が満ちている。
(篠原様)
心の中で、その名を呼ぶ。
(きっと、素晴らしいものに)
パリの街に、夜の気配が漂い始めていた。
アトリエの窓から見える月が、優しく微笑みかけるよう。
春樹とマリーは、そんな千秋の姿を見守りながら、静かに微笑み合う。
「きっと」マリーが小さく呟く。「素敵な物語になりそう」
「ええ」春樹も頷く。「二人の新しい章が、始まろうとしてる」
針を運ぶ音だけが、静かに響くアトリエ。
そこには確かな未来が、紡がれ始めていた。
(つづく)




