第51話:パリへの旅
「最終のご確認です」
空港のラウンジで、春樹は資料に目を通していた。パリ出発まであと2時間。窓の外では、早朝の空港が静かな活気を見せ始めていた。
「技法の資料は」春樹が確認を続ける。「全て、揃っていますね」
「はい」千秋は横に置かれたキャリーケースを見る。「試作品も含めて」
昨日までの慌ただしさが嘘のように、今は不思議な落ち着きを感じていた。新しいアトリエの準備も一段落し、これからの半年間、パリでの展示会と技法発表に専念することになる。
「それと」春樹が新しい資料を取り出す。「現地のデザイナーたちから」
差し出された書類には、パリのファッション界からの期待の声が並んでいた。伝統と革新の融合への関心。そして、日本の技法への賞賛。
「随分と」千秋が目を細める。「注目されているんですね」
「ええ」春樹が頷く。「特に、蓮との共同研究という点に」
その名前に、千秋の胸が高鳴る。
昨夜の見送りの場面が、鮮やかに蘇ってくる。
「必ず」蓮の最後の言葉が響く。「この技法を、世界の舞台へ」
その声には、単なる経営者としての期待以上の、深い想いが込められていた。
「風間さん」春樹の声が、彼女を現実に引き戻す。「荷物の最終確認を」
その時、ラウンジの入り口に見慣れた姿が。
「兄様?」
さくらが、玲奈と共に駆け込んでくる。
「風間さん」さくらが千秋に駆け寄る。「これ、差し入れです」
手渡されたのは、小さな包み。開けてみると、懐かしい香りが漂う。
「お茶ですか?」
「ええ」さくらが嬉しそうに説明する。「兄様が、パリで飲んでほしいって」
千秋は思わず胸が熱くなった。
蓮からの、さりげない気遣い。
「それと」玲奈が千秋に近づく。「これも」
渡されたのは、一通の封筒。
「開くのは」玲奈が意味深に微笑む。「パリに着いてからよ」
千秋は静かに頷いた。
封筒の中身を想像するだけで、胸が高鳴る。
「そろそろ」春樹が時計を見る。「搭乗の時間が」
全員が立ち上がる。
最後の別れの時が、近づいていた。
「風間さん」さくらが真剣な表情で言う。「兄様のことを」
「はい」千秋は微笑む。「私に、できることを」
「いいえ」さくらが首を振る。「それ以上の何かを、見つけてほしいんです」
その言葉に、千秋は息を呑んだ。
「さくらさん」
「兄様は」さくらの目に、期待が浮かぶ。「風間さんと出会って、変わりました」
玲奈は、そんな二人のやり取りを見守りながら、静かに微笑んでいた。
「千秋」玲奈が声をかける。「アトリエの方は、私たちに任せて」
「ありがとう」千秋は深々と頭を下げた。「みなさん」
アナウンスが流れる。
パリ行きの搭乗案内。
「では」春樹が立ち上がる。「行きましょうか」
千秋は最後にもう一度、さくらと玲奈に向き直る。
「行ってきます」
「気を付けて」さくらが手を振る。「そして」
その言葉の続きは、口にする必要もなかった。
皆の想いは、既に通じ合っていた。
搭乗口に向かう途中、千秋は窓の外を見つめた。
朝日が昇り始めた空港に、新しい一日が始まろうとしていた。
「風間さん」春樹が静かに声をかける。「蓮から、言付かっています」
「はい?」
「パリで」春樹の目が優しさを帯びる。「自分の可能性を、思う存分」
千秋は黙って頷いた。
その言葉の裏にある、蓮の想いが伝わってくる。
「きっと」春樹が続ける。「素晴らしい発見があるはずです」
搭乗口に着く直前、千秋は立ち止まった。
「水城さん」
「はい?」
「篠原様に」千秋が真摯に言う。「伝えていただけますか」
「もちろん」
「必ず」千秋の声に力が込められる。「この技法を、完成させると」
春樹は深く頷いた。
その目には、確かな期待が浮かんでいた。
飛行機の中、千秋は窓際の席に腰掛けた。
離陸前の静けさの中、玲奈からの封筒を取り出す。
(パリに着いてから)
そう思いながらも、手が封を切る方へ。
「風間さん」春樹が優しく制する。「約束でしょう?」
千秋は小さく笑った。
「はい、すみません」
飛行機が動き出す。
新しい挑戦への第一歩。
窓の外では、朝日が眩しく輝いていた。
その光は、まるで未来を照らすよう。
千秋は静かに目を閉じた。
胸の中で、蓮への想いが確かな形を取り始めている。
(待っていてください)
そう心の中で呟く。
(必ず、素晴らしいものに)
飛行機は、ゆっくりと高度を上げていく。
パリまでの12時間。
その先には、新しい世界が広がっている。
アトリエに残された二本の針が、
朝の光を受けて静かに輝いているはず。
それは二人の約束の証。
そして、これから紡がれる物語の始まり。
千秋は、もう一度窓の外を見つめた。
雲の上に広がる青空が、
無限の可能性を感じさせていた。
(つづく)




