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第5話:想いの行方

「時として、想いは針の穴さえ通り抜けて、

静かに、確かに、心へと縫い付けられていく——」

「深夜のアトリエですって?」


翌朝、玲奈の目が輝いた。朝日が差し込むアトリエの作業室で、彼女は作業台に向かう千秋の横に立っていた。窓際に置かれた花瓶の朝顔が、夜の名残の露を光らせている。


「違うの」千秋は慌てて否定する。「たまたま、資料を取りに...」


「へぇ」玲奈が意味ありげな笑みを浮かべる。「でも、社長様がわざわざ深夜に?秘書に頼めば済むことでしょ」


その言葉に、千秋は何も答えられなかった。確かに不自然だった。いつもは秘書を通して資料をやり取りする蓮が、なぜ自ら足を運んだのか。しかも、あんな遅い時間に。


「そういえば」玲奈は千秋の手元のスケッチに目を落とした。「随分と良いアイデアが浮かんだみたいね」


千秋は思わずスケッチを手で隠すように押さえた。昨夜、蓮と話した後で描いたデザイン画。彼の祖母の話から着想を得て、新しい工夫を加えたものだった。伝統的な刺繍技法を基礎にしながら、現代的なシルエットに合わせて配置を変える。光の加減で模様が浮かび上がるような錯覚を利用した、新しい試みだった。


「ええ、少し...」


「少しどころじゃないでしょ」玲奈が千秋の手を優しく押さえた。「こんなに生き生きとしたデザイン、最近見てないわ」


「そう...かな」


「そうよ」玲奈はニヤリと笑った。「まるで、誰かに見せたくて仕方がないみたいに」


「違うわ」


慌てて否定する千秋に、玲奈は更に追及の手を緩めない。朝の光が作業台に差し込み、二人の影を床に落としている。


「本当に?だって、ここのレースの配置も、この刺繍の具合も、全部彼の提案を活かしているじゃない」


「それは...」千秋は言葉に詰まった。「単に、良いアイデアだと思ったから」


「そう」玲奈は意地悪く笑う。「でも、普段の千秋なら、他人の意見なんてそう簡単には取り入れないわよね」


その言葉に、千秋は返答できなかった。確かに、彼女は自分のデザインに誇りを持っている。簡単に人の意見は受け入れない。それなのに、なぜ蓮の言葉は——。


玲奈は、十年来の親友として千秋の性格をよく知っていた。高校時代、家政科の実習で出会った時から、千秋の頑固なまでの職人気質は変わっていない。むしろ、祖母から技を受け継ぎ、プロのデザイナーとなった今では、その傾向は一層強まっているはずだった。


「それにね」玲奈は続けた。「昨日の打ち合わせの時から、様子がおかしいのよ」


「どういう意味?」


「篠原様の名前が出るたびに、表情が変わる。デザインの話になると、目が輝く。そして」玲奈は意味深な笑みを浮かべた。「今朝は、いつもより早く来てたでしょ?」


「それは、締め切りが...」


「風間さん」


アトリエに響く低い声に、千秋は思わず背筋を伸ばした。


「篠原様...」


蓮が、完璧なスーツ姿で立っていた。昨夜の柔らかな表情は、まるでなかったかのように。その姿に、深夜のアトリエでの会話が夢だったのではないかと、千秋は一瞬思ってしまう。


「デザインの修正案、できましたか?」


まるでビジネスライクな口調。千秋は思わず昨夜のスケッチを握りしめた。昨夜の柔らかな空気は、朝の光と共に消え去ってしまったかのようだ。


「はい、ちょうど...」


「では、打ち合わせ室で」


蓮の後ろ姿を見送りながら、玲奈が小声で囁いた。


「ほら、社長様も気になって来たんじゃない?朝一番で来るなんて」


「違うわ」千秋は首を振った。「これは、ただの...」


言葉が続かない。なんて言えば良いのだろう。これは確かに仕事だ。大切な顧客との打ち合わせ。それ以上でも、それ以下でもない。そう言い聞かせるのに、どうして胸がこんなにざわつくのだろう。


打ち合わせ室に入ると、蓮は窓際に立っていた。朝の光が彼の横顔を照らす。昨夜とは違う、凛とした空気。それでも、千秋には分かった。同じ想いを持つ人の、仕事への真摯な眼差しが、そこにあることを。


「見せてください」


差し出されたスケッチを、蓮は真剣な表情で見つめた。その目には、昨夜見せた柔らかさは残っていない。しかし、布地を見る時の特別な輝きは、確かにそこにあった。


「昨夜の案を、更に発展させたんです」千秋は説明を始める。「コストを抑えながら、質は落とさない方法を」


スケッチには、昨夜閃いたアイデアが詰まっている。蓮の祖母が使っていたという技法を基に、現代的なアレンジを加えた新しい刺繍方法。予算内で最大限の効果を引き出すための工夫の数々。


蓮の表情が、僅かに柔らかくなった。


「ここの部分」彼が指さす場所は、昨夜話した箇所の近く。「良くなっていますね」


その言葉に、千秋は思わず顔を上げた。視線が重なり、慌てて目を逸らす。昨夜の月明かりの下での会話が、鮮やかに蘇る。


「篠原様のアイデアのおかげです」


「いいえ」蓮は首を振った。「風間さんが、更に良いものに変えたんです」


その瞬間、二人の指先が触れた。ほんの一瞬の接触に、千秋は息を呑む。昨夜とは違う、緊張感のある空気の中での触れ合いに、心臓が大きく跳ねる。


「これで、さくらも喜ぶでしょう」


蓮の声には、確かな安堵が混ざっていた。妹を想う優しさが、そこにある。その一言に、昨夜見せた素顔の蓮の姿が重なる。


千秋は自分の胸の高鳴りを感じながら、ふと思った。

この仕事は、確かに特別な一着のドレスを作ること。

でも同時に、誰かの大切な想いを、形にすることでもある。


妹への愛情。

伝統への敬意。

そして、新しい時代への覚悟。


全てを一着のドレスに込めていく。それは、まさに千秋が目指してきた服作りの理想だった。そして今、彼女の心の中でも、何か大切な想いが、静かに形を作り始めているような気がした。


「風間さん?」蓮の声が、千秋の思考を現実に引き戻す。


「申し訳ありません」慌てて資料に目を戻す千秋。けれど、頬の熱は簡単には引かない。


アトリエの窓から差し込む朝日が、彼女の頬を更に優しく染めていく。

そして、確かに感じる胸の高鳴りは、もう隠しようがなかった。


打ち合わせを終えて部屋を出ると、玲奈が意味ありげな笑みを浮かべて待っていた。


「どう?素敵な朝の打ち合わせは」


「もう、玲奈ったら」


けれど、その言葉に込められた想いを、否定することはできなかった。


朝日は次第に高くなり、アトリエは日常の活気を取り戻していく。

しかし、千秋の心の中で、確かに何かが変わり始めていた。

それは、まるで一針一針、布地に模様を描くように、

静かに、けれど確実に、形を成していくものだった。

「一針一針、布地を繋ぐように、

想いもまた、少しずつ、

確かな形を紡いでいく」


(つづく)

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