第49話:新たな一歩
「ここが新しいアトリエですか」
真夏の午後、千秋は古い町家の前に佇んでいた。蓮と共に選んだ場所。築百年を超える伝統的な建物は、まだ renovation前の姿のまま。しかし、その佇まいには確かな可能性が感じられた。
「どうですか」蓮が千秋の横に並ぶ。「風間さんの思い描いていた場所に」
「はい」千秋は微笑む。「伝統を活かしながら、新しい価値を」
格子戸越しに見える中庭には、古い枯山水が広がっている。苔むした石と白砂の織りなす景色は、時を超えた美しさを湛えていた。
「実は」蓮が静かに言う。「ここには、特別な縁があって」
「縁?」
「ええ」蓮の目が柔らかくなる。「祖母が、よく訪れていた場所なんです」
千秋は息を呑んだ。
運命的な巡り合わせに、胸が熱くなる。
「おや」
振り返ると、春樹が立っていた。手には改装案の資料。
「ちょうど良かった」春樹が近づく。「若手育成プログラムの詳細が」
三人は町家の中に入る。畳の上を歩く足音が、静かに響く。
「ここを」春樹が図面を広げる。「メインの作業場に。そして、この離れを」
説明が続く中、千秋の目は自然と二階へと向かう階段に引き寄せられた。
「風間さん」蓮が気づく。「上も、見てみますか」
二人は古い階段を上る。木の質感が、長い歴史を物語っている。
二階に上がると、思いがけない光景が広がった。大きな窓から差し込む陽射しが、フローリングの床を優しく照らしている。
「ここを」蓮が言う。「研究室に」
その言葉に、千秋は目を見開いた。
「私たちの新しい技法を」蓮が続ける。「ここで、さらに発展させていきたい」
その「私たち」という言葉に、特別な響きを感じる。
「篠原様」千秋が窓際に立つ。「本当に、ここで」
「ええ」蓮の声に確信が込められる。「あなたと一緒に」
二人の視線が重なる。
そこには、もう迷いはなかった。
「失礼します」
春樹が二階に上がってきた。
「若手育成の件で」春樹が新しい資料を取り出す。「パリからの反響も」
差し出された書類には、欧州の著名なデザイナーたちからの期待の声が並んでいた。伝統と革新の融合への賛辞。そして、次世代育成への激励。
「これだけの反響があるなら」春樹が微笑む。「きっと、多くの若手が」
その時、一階から声が聞こえた。
「兄様」
さくらが、玲奈と共に訪れていた。
「風間さん」さくらが千秋に駆け寄る。「ここが、新しいアトリエ」
「ええ」千秋が頷く。「まだ、これからですけど」
「素敵」さくらの目が輝く。「伝統的な和の空間と、現代的なデザインが」
玲奈は、そんな様子を見守りながら、意味深に微笑んでいた。
「ねぇ」玲奈が千秋に近づく。「もう、迷いはない?」
千秋は静かに首を振った。
「はい」彼女の声に力が宿る。「これが、私の道」
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。
カーテンが、新しい季節の訪れを告げるように揺れる。
「それで」春樹が話を戻す。「オープン日は」
「一ヶ月後」蓮が答える。「パリでの技法発表から」
「そうでしたね」玲奈が頷く。「欧州での評価を受けて」
話し合いは自然と具体的な内容へと移っていく。改装のスケジュール、若手育成プログラムの内容、そして新しい技法の展開について。
「この部屋は」さくらが一室を指さす。「展示スペースに」
「そうですね」千秋も同意する。「伝統技法の歴史を紹介しながら」
二人の祖母から受け継いだ技法。その歴史と、新しい可能性。全てを、ここで形にしていく。
「風間さん」蓮が静かに声をかける。「少し、いいですか」
二人は窓際に立つ。
夕暮れが近づく空を、共に見つめる。
「ここから」蓮が言う。「私たちの新しい物語が」
「はい」千秋も微笑む。「やっと、見つけた場所」
その時、春樹が資料を手に近づいてきた。
「最後に」春樹が言う。「アトリエの名前を」
千秋と蓮は、顔を見合わせる。
「それは」蓮が答える。「もう、決めてあります」
「Atelier Tradition」
千秋の声が、静かに響く。
「伝統を意味するtraditionには」蓮が説明を加える。「『伝える』という意味も」
春樹は深く頷いた。
「素晴らしい名前だ」
夕暮れの光が、アトリエを優しく包み込む。
歴史を重ねた柱と梁が、新しい時代の風を受け止めているよう。
「さぁ」春樹が立ち上がる。「細かい打ち合わせは、また」
去り際、彼は二人に意味深な視線を送った。
その目には、深い信頼と期待が込められている。
玲奈とさくらも、そっと部屋を出ていく。
「私たちは、先に」
残された二人の間に、夕陽が差し込む。
「風間さん」蓮が千秋の方を向く。「ありがとう」
「え?」
「あの日」蓮の声が温かみを帯びる。「私の夢を、信じてくれて」
千秋は静かに頷いた。
それは言葉以上の、確かな応答。
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。
カーテンが、希望のように揺れる。
下の通りでは、夕暮れの参拝客の足音が聞こえる。
石畳を歩く音が、心地よい余韻を残していく。
「これから」千秋が言う。「私たちの技法を」
「ええ」蓮も微笑む。「一緒に、育てていきましょう」
二人の視線が重なる。
そこには、もう迷いはない。
伝統と革新。
過去と未来。
そして、二人の想い。
全てが、この場所から始まろうとしていた。
作業台の上で、二本の針が静かに輝きを放つ。
その光は、まるで永遠を誓うように、
夕陽を受けて煌めいていた。
アトリエには、新しい夢が満ちていく。
それは確かな未来への、最初の一歩。
(つづく)




