第48話:止まった時間
「申し訳ありません」
取締役会の会場で、蓮は深々と頭を下げていた。早朝の会議室に、重い空気が漂う。窓から差し込む朝日が、長いテーブルに並ぶ重役たちの緊張した表情を照らしていた。
「アメリカ行きの件」蓮の声が、静かに響く。「私なりの答えを出しました」
一瞬の沈黙。春樹は窓際で、親友の決断の瞬間を見守っていた。普段の冷静な判断で知られる重役たちの表情にも、僅かな動揺が浮かぶ。
「具体的に」会長が口を開く。「どういうことなのか」
蓮は一度深く息を吐き、まっすぐに前を見つめた。
「アメリカでの技術提携は」彼の声に力が込められる。「別の形で進めさせていただきたい」
「どういうことだ」ある重役が声を上げる。「既に決定した話を、この段階で」
「はい」蓮は冷静に答える。「私には、ここでやるべきことがある」
その言葉に、会場の空気が凍りつく。春樹の表情が、僅かに和らいだ。数十年の付き合いがあるからこそ、この決断の重みを理解していた。
「風間さんとの技法研究を」蓮が続ける。「新しいアトリエで、継続したいと考えています」
驚きの声が、会場に広がる。完璧な計画を立てることで知られる篠原蓮が、突然の方針転換を提案するなど、誰もが予想だにしなかった展開だった。
「この研究には」蓮が説明を続ける。「確かな価値があります。パリでの評価が、それを証明しています」
秘書が素早く資料を配る。欧州の評論家たちからの絶賛の声。具体的な展開プラン。そして、新しいアトリエの構想図。全てが緻密に計画されていた。
「伝統と革新の融合」蓮が力強く言う。「それは単なるスローガンではない。私たちが目指す、確かな未来なのです」
その時、会場のドアが静かに開かれた。
「失礼します」
千秋が立っていた。パリから帰国したばかりの彼女の姿に、会場から小さな動揺が広がる。整った身なりの中に、どこか切迫した空気が漂っていた。
「風間さん」春樹が驚いて立ち上がる。「まさか」
「申し訳ありません」千秋が一歩前に出る。「私からも、お伝えしたいことがあります」
蓮の目が、千秋を捉えた。その視線には、言葉にできない想いが込められている。パリでの別れ以来、初めての再会。その時間が、まるで永遠のように感じられた。
「この技法は」千秋が静かに、しかし芯の通った声で言う。「篠原様と私の、夢の結晶です」
会場に、新しい空気が流れ始める。
「パリでの展示会で」千秋が続ける。「私たちは確信したんです。この道が、私たちの進むべき方向だと」
彼女は新しい資料を取り出した。パリでの最新の試作品。そこには、二人の技術が見事に調和していた。伝統的な刺繍技法を基礎としながら、現代的な解釈を加えた革新的な手法。
「これは」ある重役が息を呑む。「素晴らしい」
「単なる伝統技法の継承ではありません」千秋の声が力強くなる。「新しい価値の創造。それが、私たちの目指すものです」
蓮は、そんな千秋の姿を静かに見つめていた。その目には、これまでに見せたことのない柔らかな光が宿っている。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「私からも、伝えたいことがあります」
会場の空気が、一瞬で変わる。長年、完璧な経営者として知られる蓮の、新しい表情に、誰もが息を呑んだ。
「この研究は」蓮の声が震える。「私の人生を変えました」
千秋の胸が、大きく跳ねる。
「学生時代から追いかけていた夢」蓮が続ける。「それを、あなたと形にできた。この奇跡を、私は決して手放したくない」
春樹は、親友の告白を見守りながら、深い安堵を感じていた。これが、蓮の本当の姿。彼が長年隠してきた、純粋な研究者としての顔。
「だから」蓮が真摯に言う。「これからも、一緒に歩んでいきたい」
その言葉には、仕事以上の、深い想いが込められていた。
「篠原様」千秋の声が揺れる。瞳に、涙が光る。
「風間さん」蓮が一歩近づく。「私の夢は、まだ続いています。そして、それはもう一人では見られない夢なんです」
取締役会の重役たちは、静かにその様子を見守っていた。長年の経験から、この瞬間が特別なものだと、誰もが理解していた。
「新しいアトリエで」蓮の声に確かな決意が宿る。「伝統と革新の未来を、一緒に創っていきたい。それが、私の最後の決断です」
千秋の目から、涙がこぼれ落ちる。けれど、その表情には確かな喜びが浮かんでいた。
「はい」彼女は迷いなく答えた。「私も、同じ夢を見ています。ずっと」
会場に、温かな空気が満ちる。重役たちの表情も、少しずつ和らいでいく。長年の実績を持つ経営者たちは、この決断が単なる感情的なものではないことを、理解していた。
「では」会長が立ち上がる。「この件については」
全員が静かに頷く。それは新しい挑戦への、確かな承認の印。
「ありがとうございます」蓮と千秋が揃って頭を下げる。
春樹は、二人の姿を見つめながら、静かに微笑んでいた。
「これで良かったんだ」彼は小さく呟く。「やっと、本当の答えが見つかった」
会場の窓から、夏の陽射しが差し込んでくる。その光が、新しい物語の始まりを照らしているよう。
アトリエでは、玲奈とさくらが結果を待っていた。朝の光が差し込む作業台に、二人の影が落ちている。
「どうなったかしら」玲奈が窓の外を見つめる。「このまま」
「大丈夫」さくらが優しく微笑む。「兄様は、決めたんです。初めて、自分の本当の想いに従うって」
その時、二人の携帯が同時に震える。春樹からのメッセージ。
『全て、上手くいきました。二人とも、新しい一歩を踏み出したようです』
玲奈とさくらは、顔を見合わせて微笑んだ。その表情には、長い道のりを見守ってきた者たちの、深い安堵が浮かんでいる。
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。カーテンが、希望のように揺れる。作業台の上には、二本の針が光を放っていた。一本は千秋の祖母から、もう一本は蓮の祖母から託された針。それは二人の想いが、確かに重なった証。
取締役会の会場で、春樹は二人を見送りながら呟いた。
「さぁ」彼の声には確かな喜びが混ざっている。「新しい物語の始まりだ」
蓮と千秋は、並んで廊下を歩いていく。その姿は、まるで未来への一歩を踏み出すよう。これまでの関係を超えて、新しい絆を紡ぎ始めた二人。
玲奈は作業台に残された布地を手に取った。そこには、二人の技術が見事に融合していた。伝統と革新。過去と未来。そして、二人の想い。
アトリエには、新しい朝の光が満ちていく。それは長い道のりの果てに、やっと見つけた答え。時には遠回りもしながら、でも確実に近づいてきた二人の未来。
そして今、新しい一歩が始まろうとしていた。それは伝統と革新の物語であり、同時に二人だけの特別な約束。
作業台の上で、二本の針が静かに輝きを放つ。その光は、まるで永遠を誓うように、朝の陽射しを受けて煌めいていた。
(つづく)




