第44話:戸惑いの針
「展示会も、あと二日」
玲奈はアトリエの窓から、夕暮れの空を見上げていた。パリでの反応は上々。欧州の評論家たちも、伝統と革新の融合を高く評価している。
「篠原様からの連絡は?」玲奈が春樹の方を向く。
「ああ」春樹は複雑な表情を浮かべる。「今朝、久しぶりに」
アトリエには、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。残暑の厳しい外とは違い、室内は静かな空気に包まれている。
「彼は」春樹が窓際に立つ。「やっと、自分の気持ちと向き合い始めた」
その言葉に、玲奈は小さく頷く。
あの朝見せた冷たい態度から、どれほどの変化があったのだろう。
「でも」春樹の声が沈む。「まだ、風間さんには」
その時、アトリエのドアが開く。
「失礼します」
秘書が慌ただしく入ってくる。手にはパリからの新しい報告書。
「これは」春樹が書類を受け取る。「風間さんからの」
二人は息を呑む。
展示会も終盤に差し掛かり、最後の正念場を迎えていた。
「技法の完成度は」春樹が書類に目を通す。「予想以上に高く」
しかし、その報告には技術的な内容だけ。千秋からの個人的なメッセージは一切ない。
「相変わらず」玲奈が溜め息をつく。「仕事のことしか」
「ええ」春樹の声に心配が滲む。「二人とも、同じように」
アトリエに、夕暮れの静けさが広がる。
蝉の声も弱まり、夜の気配が近づいてきていた。
「水城さん」玲奈が真剣な表情で言う。「このまま、終わらせちゃいけないわ」
「分かっています」春樹も決意を込めて。「だから」
その時、春樹の携帯が震える。
パリからの国際電話。今度は千秋からだ。
「風間さん?」春樹が驚いて電話に出る。「どうかしましたか」
向こうからの声に、春樹の表情が変わっていく。
「そうですか」春樹の声が柔らかくなる。「蓮のことが、気になって」
玲奈は、そんな春樹の様子を見守りながら、意味深な表情を浮かべる。
「ええ」春樹が続ける。「彼も、同じように」
電話を切った後、春樹は深いため息をついた。
「二人とも」春樹が窓の外を見つめる。「相手のことばかり考えているのに」
「素直じゃないのよね」玲奈が微笑む。「でも、それが二人らしいわ」
アトリエの窓から、夕暮れの風が入ってくる。
カーテンが、切なく揺れる。
「展示会が終われば」春樹が言う。「全てが決まる」
「篠原様の、アメリカ行きも?」
「ええ」春樹の目が遠くを見つめる。「そして、二人の関係も」
その時、秘書が再び書類を持ってくる。
取締役会からの最終判断が届いたという。
「これは」春樹が目を通す。「パリでの成功を受けて」
玲奈は息を呑む。
「アメリカ行きの期間を」春樹の声が明るくなる。「大幅に短縮」
アトリエに、希望の光が差し込んでくる。
それは夕暮れの陽射しよりも、温かな輝きを放っている。
「あとは」玲奈が優しく微笑む。「二人の決断を、待つだけね」
春樹は静かに頷いた。
技法は確かに成功を収めた。
けれど、最も大切な挑戦は、これからなのかもしれない。
夕暮れのアトリエに、新しい期待が満ちていく。
それは誰もが待ち望んでいた、物語の展開。
(つづく)




