第42話:離れゆく心
「時間です」
パリ行きの飛行機まで、あと一時間。アトリエには早朝の光が差し込み、昨夜完成した作品が静かな輝きを放っている。
「ええ」千秋は最後の確認を続けながら答えた。「もう一度だけ」
完成した技法は、予想以上の出来栄えだった。二人の祖母の想いを受け継ぎ、そこに新しい解釈を加えた革新的な手法。光の加減で模様が浮かび上がる効果は、伝統と革新の見事な融合を体現していた。
「千秋」玲奈が心配そうに近づく。「荷物は大丈夫?」
その時、アトリエのドアが開く。
「お早うございます」
春樹が入ってきた。手には最新の渡航書類。
「最終確認を」春樹が近づきながら言う。「蓮は、もうすぐ」
千秋は小さく頷いた。
昨夜の完成から、まだ蓮とは言葉を交わしていない。
朝日が昇り始め、アトリエ全体が柔らかな光に包まれていく。
新しい一日の始まりと共に、大きな挑戦が動き出そうとしていた。
「風間さん」春樹が静かに言う。「蓮のことで、一つだけ」
千秋は手を止め、春樹の方を向く。
「彼は」春樹の声が低くなる。「自分を追い込みすぎているんです」
アトリエに、早朝の静けさが流れる。
外では、街が少しずつ目覚め始めていた。
「パリでの成功と」春樹が続ける。「アメリカ行きの決断。そして、あなたへの」
その時、アトリエのドアが開く。
「失礼します」
蓮が入ってきた。完璧なスーツ姿。その表情には、どこか冷たい決意が浮かんでいる。
「準備は?」蓮の声に感情が見えない。
「はい」千秋は作品を示す。「全て、整いました」
二人の間に、言いよどむ空気が流れる。
昨夜の温かな空気は、どこへ消えてしまったのか。
「春樹」蓮が友人の方を向く。「車の準備を」
「ああ」春樹は一瞬躊躇いを見せたが、静かに頷いた。
玲奈も空気を読んで、そっと部屋を出ていく。
アトリエに残された二人の間に、朝の光が差し込む。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「昨夜は」
「はい」
「あれは」蓮の声が震える。「仕事の上での、必要な」
「違います」
千秋の声が、静かに、しかし力強く響く。
「あの技法には」千秋は布地に手を置く。「私たちの、全てが込められています」
蓮の表情が、僅かに揺れる。
「だからこそ」蓮が窓の外を見つめる。「これ以上、あなたを巻き込むわけには」
「巻き込む?」
「ええ」蓮の声が冷たくなる。「全ては、私の判断ミスです」
アトリエに、重い沈黙が落ちる。
「篠原様」千秋が一歩近づく。「昨夜の言葉は」
「忘れてください」
その言葉が、千秋の胸を刺す。
「これから」蓮が続ける。「全ては、ビジネスとして」
その時、春樹が戻ってきた。
「車の用意が」言いかけて、春樹は空気を察する。
アトリエの窓から、朝の風が入ってくる。
カーテンが、切なく揺れる。
「では」蓮が立ち上がる。「空港で」
その背中には、何かを押し殺したような硬さが見える。
千秋は黙って布地を包み始めた。
一針一針に込めた想いが、今、遠ざかっていく。
春樹は、そんな二人の姿を見守りながら、深いため息をついていた。
これから始まるパリでの挑戦。
それは技法の評価だけでなく、
二人の心の行方をも決めることになる。
(つづく)




