第40話:迷いの夜
「もう、こんな時間」
千秋は夜のアトリエで、パリまでの残り時間を数えていた。あと一日。作業台の上には、幾つもの試作品が広がっている。
窓の外は闇に包まれ、街灯の明かりだけが静かに差し込んでいた。昼間の蝉の声も消え、深夜の静寂がアトリエを満たす。
「やっぱり、まだ」千秋は布地を見つめ直す。「この効果が」
蓮からの連絡が途絶えて四日目。秘書を通しての事務的なやり取りだけが、かろうじて二人を繋いでいた。
「風間さん」
振り返ると、春樹が立っていた。こんな遅い時間に、彼もまた仕事を続けていたのだろうか。
「水城さん」千秋が立ち上がる。「まだ残っていたんですか」
「ええ」春樹の声には疲れが混じっている。「蓮のことで、話があって」
街灯の光が、春樹の憂いを帯びた横顔を照らしていた。
「実は」春樹が窓際に立ったまま続ける。「明日の朝一で、緊急取締役会が」
千秋の手が、布地の上で止まる。
「アメリカからの」春樹の声が沈む。「最後通告とも言える要請で」
アトリエに、夜の静けさが広がる。
時計の音だけが、重たく響いていた。
「蓮は」春樹が言葉を選ぶように。「追い詰められているんです」
「追い詰められて?」
「ええ」春樹の目が遠くを見つめる。「パリでの成功と、アメリカ行きの決断と。そして、あなたへの想いと」
その時、アトリエのドアが静かに開く。
「春樹」
蓮が立っていた。ネクタイは緩められ、いつもの凛とした姿からは程遠い。けれど、その目には強い意志が宿っていた。
「蓮」春樹が振り向く。「もう、決めたのか」
「ああ」蓮の声が低く響く。「全てを、パリにかける」
千秋は息を呑む。
その言葉の重みが、夜のアトリエに満ちていく。
「風間さん」蓮が一歩近づく。「私の、勝手な決断を」
「違います」
千秋の声が、静かに、しかし力強く響く。
「それは」千秋は布地に手を置く。「私たち、二人の挑戦です」
蓮の目に、かすかな潤みが浮かぶ。
春樹は、そんな二人の様子を見守りながら、複雑な表情を浮かべていた。その目には、友人への祈りと、何か切ない決意が混ざっている。
「では」春樹が立ち上がる。「私は、これで」
去り際、彼は二人に小さく頷きかけた。
その仕草には、深い理解と信頼が込められていた。
アトリエに残された二人の間に、夜の静けさが流れる。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「この四日間、ごめんなさい」
「いいえ」千秋は針を持ち直す。「私も、考える時間が必要でした」
「考える?」
「はい」千秋はまっすぐに蓮を見つめる。「私たちの、これからのことを」
アトリエの窓から、夜風が入ってくる。
カーテンが、そっと揺れる。
「この技法には」蓮が布地に近づく。「二つの想いが込められている」
「二つ?」
「伝統を守ること」蓮の声が温かみを帯びる。「そして、新しい未来を創ること」
千秋は黙って頷いた。
それは、彼らが目指すものの全て。
「だから」蓮が続ける。「あと一日、一緒に」
二人は静かに作業台に向かう。
街灯の光が、その姿を優しく照らしていた。
アトリエの中で、確かな絆が紡がれていく。
それはまだ、完成には程遠い。
けれど、二人の心は同じ方向を見つめ始めていた。
(つづく)




