第4話:深夜のアトリエ
「やっぱり、この案件は無理だったかもしれない」
深夜のアトリエで、千秋は溜め息をつきながらデザイン画を見つめていた。初回の打ち合わせから一週間。予算内で最高級の仕上がりを実現するため, 幾度となくプランを練り直してきた。机の上には、様々な素材のサンプルや、技法の試作品が広がっている。
それぞれの素材には、それぞれの物語があった。シルクは西陣の老舗「川村織物」から取り寄せた特注品。普段より細い糸を使い、特殊な織り方で仕上げることで、通常の半分以下のコストで似たような効果を出せる。レースは、フランスの専門店に眠っていた在庫品。わずかに色が抜けているものの、むしろそれが日本的な風合いを出すのに役立つ。刺繍糸は祖母の代からの付き合いがある京都の老舗から。量を工夫することで、予算内に収めることができた。
「でも、あの笑顔を守りたい」
机の上に広げられた祖母の技法ノートを見つめながら、さくらの嬉しそうな表情を思い出す。そして、それを見守る蓮の複雑な眼差しも。
週に二度の打ち合わせ。蓮は約束通り、細部まで確認に来ていた。その真摯な姿勢は、千秋の予想をはるかに超えていた。生地の織りの細かさまでチェックし、縫製の方法についても鋭い質問を投げかける。時には、祖母から聞いたという古い技法について教えてくれることもあった。
深夜零時を指す時計の音が静かに響く。窓の外では、月明かりが庭の草花を優しく照らしていた。普段なら誰もいないはずのアトリエに、今夜は一人の灯りが残されている。
千秋は椅子から立ち上がり、伸びをした。昼間から続く作業で、肩が凝っていた。窓際まで歩き、夜風に当たる。初夏の風が、彼女の頬を優しく撫でる。
京都の夜は、不思議な静けさに包まれる。観光客の声も遠のき、石畳を行き交う人影も途絶え、まるで時が止まったかのような空気が漂う。そんな中、アトリエの灯りだけが、小さな光を放っていた。
カチャリ——。
「誰...?」
突然の物音に振り返ると、そこには意外な人物が立っていた。
「...篠原様」
スーツ姿の蓮が、アトリエの入り口に佇んでいた。ネクタイは少し緩められ、いつもの完璧な佇まいにほんの僅かな乱れが見えた。昼間の打ち合わせの時とは違う、どこか疲れたような表情。しかし、その目には確かな光が宿っている。
「まだ残っていましたか」
「はい、少し作業を...」
千秋は慌てて髪を押さえた。徹夜作業用の簡素な服装に、乱れた髪。普段の凛とした姿からはかけ離れた自分の姿に、思わず両手で頬を覆いたくなる。
「明日の打ち合わせの資料を取りに来たんです」蓮が説明した。「でも、風間さんがいると聞いて」
そこで言葉を切った蓮は、作業台に目をやった。散らばる素材、試作品、デザイン画。そして、祖母のノート。その全てに、彼の視線が優しく触れていく。
「作業の邪魔でしょうか」
「いいえ」千秋は首を振る。「ちょうど行き詰まっていたところです」
蓮が作業台に近づいてきた。ほのかな香水の香りが漂い、千秋は思わず息を止めた。夜の静けさの中、その存在感がより一層際立って感じられる。
「見せてもらえますか?」
その声は、いつもの冷たさがなかった。夜の静けさに溶け込むような、柔らかな響き。
千秋がデザイン画を差し出すと、蓮は真剣な眼差しでそれを見つめた。間近で見る横顔に、日中の鋭さは影を潜めている。月明かりに照らされた表情には、どこか懐かしいような温かみがあった。
「ここの刺繍」蓮が指先でスケッチの一部を指した。「この部分を変えれば、コストは抑えられると思います」
「え?」千秋は驚いて顔を上げた。その視点は的確で、しかも素人とは思えない専門的なものだった。「どうしてそれを...」
「実は」蓮はスケッチから目を離さず、静かに語り始めた。「祖母が服飾の仕事をしていて」
言葉を選ぶように、少し間を置く。その瞬間、アトリエの時計が一時を告げ、深い余韻が二人を包む。
「子供の頃、よく仕事場にいました。一針一針、布地を扱う手つき。お客様の要望に耳を傾ける姿勢。今の私の仕事にも、その時の経験が生きているんです」
街灯の光が窓から差し込み、蓮の表情が柔らかく見えた。千秋は言葉を失った。いつもの厳しい表情からは想像もつかない、温かな記憶の色が浮かんでいる。
「その頃の私も、こうして深夜まで祖母の仕事を見ていました」蓮は懐かしそうに微笑んだ。「今夜、ここに来て、その時のことを思い出したんです」
「素敵な思い出ですね」
「ええ。夜になると、祖母は違う顔を見せるんです。昼間の厳しさは消えて、ただ布地と向き合う。そんな姿に、私は魅了されていました」蓮は作業台の上の布地に触れる。「こうして、一人で静かに」
「篠原様...」
「だから」蓮は千秋を見つめた。「今の風間さんの姿を見て、少し心配になって」
「心配?」
「こんな遅くまで、一人で」
その言葉に、千秋は胸が熱くなった。蓮との距離が、やけに近く感じる。二人を照らす月明かりが、まるで別世界に迷い込んだような雰囲気を作り出していた。
「大丈夫です。私、仕事が好きですから」
「それは分かります」蓮は静かに答えた。「でも、時には休むことも大切です。祖母もよく言っていました」
「昼間と夜とで、布地の表情が変わるんです」千秋は思わず本音を漏らした。「この時間だけの、特別な輝きがあって...」
その時、作業台の上で二人の手が触れた。ほんの一瞬の接触に、千秋は息を呑んだ。指先から伝わる温もりが、心臓の鼓動を早める。
「もう、こんな時間ですね」
蓮が腕時計を見て呟いた。時計の針は、既に一時半を指していた。
「今日はこの辺にしましょう。明日、また」
「はい...」
蓮が去った後、千秋は自分の胸の高鳴りに気づいた。心臓の鼓動が、いつもより少しだけ速くなっている。両手で頬を覆うと、そこに確かな熱を感じた。
外は既に深い闇。けれど彼女の心には、小さな、けれど確かな光が灯ったような気がしていた。それは、まるで初めて針に糸を通した時のような、不思議な高揚感。
千秋は作業台に戻り、布地に向かう。今夜見た蓮の表情が、彼女の心に新しいインスピレーションを与えていた。
(つづく)