第39話:消えた連絡
「三日目よ」
玲奈の声に、千秋は手元の刺繍から顔を上げた。朝日が差し込むアトリエで、彼女はまた一人で作業を続けていた。パリまであと二日。
「何が?」
「篠原様からの連絡が」玲奈が作業台に近づく。「取締役会以来、ぷっつりと」
千秋の手が、布地の上で止まる。
確かに、この三日間。全ての連絡は秘書を通してのみ。あの夜以来、蓮の姿を見ていない。
「お忙しいんでしょう」千秋は視線を布地に戻す。「パリの準備も大詰めだし」
けれど、その声には僅かな揺らぎが混ざっていた。
「本当に、それだけ?」玲奈が心配そうに言う。「あの夜、何かあったの?」
その時、アトリエのドアが開く。
「失礼します」
春樹が入ってきた。いつもの柔らかな笑顔は影を潜め、どこか疲れた表情を見せている。
「風間さん」春樹が近づく。「蓮のことで、心配で」
千秋は息を呑む。
朝の光が、春樹の物思わしげな横顔を照らしていた。
「最近の蓮は」春樹が窓際に立つ。「また、あの頃のように」
「あの頃?」
「ええ」春樹の声が沈む。「誰かを遠ざけようとする、そんな雰囲気」
アトリエに、蝉の声が響く。
朝の光が、三人の間に長い影を落としていた。
「もしかして」玲奈が静かに言う。「深夜の打ち合わせで」
千秋は黙って布地を見つめる。あの夜、二人きりのアトリエで交わした言葉。それは単なる仕事以上の、何かを示唆するものだった。
「風間さん」春樹が真摯な眼差しで言う。「蓮は、きっと怖れているんです」
「怖れている?」
「ええ」春樹の目が遠くを見つめる。「誰かを大切に想うことを」
その時、アトリエのドアが開く。
「春樹」
蓮の声。いつもの凛とした姿で、けれどどこか冷たい表情。
「また」蓮の声に怒りが混じる。「余計な」
「蓮」春樹が立ち上がる。「このままじゃ」
「仕事の話は」蓮が遮る。「秘書を通して」
千秋は胸が締め付けられる思いがした。あの夜の温かみは、どこへ消えてしまったのか。
「風間さん」蓮が千秋に向き直る。「技法の進捗は」
「はい」千秋は試作を示す。「ですが、まだ」
蓮は黙って布地を見つめる。その目には、冷たさの中にも何か特別な光が宿っている。
春樹は、そんな二人の様子を見守りながら、静かに立ち上がった。
「私は」春樹が退室しようとする。「この辺で」
去り際、春樹は千秋に意味深な眼差しを送った。
応接室に残された二人の間に、重い空気が流れる。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「あの夜は」
「はい」
「私の弱さを」蓮の声が震える。「見せてしまって」
「違います」
千秋の声が、アトリエに響く。
「それは弱さではなく」千秋は真摯に言う。「篠原様の、温かさでした」
蓮の表情が、僅かに揺れる。
「このまま」蓮が窓の外を見つめる。「パリへ向かっていいのでしょうか」
「それは」千秋は二本の針を手に取る。「私たちで、確かめましょう」
朝の光が、針を優しく照らす。
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。
カーテンが、そっと揺れる。
玲奈は、そんな二人の様子を見守りながら、深いため息をついていた。
千秋の手元で、針が布地を進んでいく。
一針一針に、これまでにない想いを込めながら。
それは技法への追求であり、
誰かへの祈りでもあった。
(つづく)




