第38話:静かな闇
「もう、こんな時間」
夜中のアトリエで、千秋は作業台に広がる布地を見つめていた。パリまであと二日。零時を過ぎても、彼女の手は止まらない。
窓の外は闇に包まれ、街灯の明かりだけが静かに差し込んでいる。昼間の蝉の声も消え、深夜の静寂がアトリエを満たしていた。
「ここの構造が」千秋は布地に向かって呟く。「まだ、しっくりこない」
取締役会の決定から一日。技法の完成に向けて、彼女は必死で時間を重ねていた。
「千秋?」
振り返ると、玲奈が心配そうな表情で立っていた。
「こんな遅くまで」玲奈が近づく。「体を壊しちゃ」
「でも」千秋は針を握ったまま答える。「残された時間が」
その時、アトリエのドアが静かに開く。
「まだ、残っていましたか」
蓮が立っていた。スーツ姿は崩れ、ネクタイも緩んでいる。彼もまた、深夜まで仕事を続けていたのだろう。
「篠原様」千秋が立ち上がる。「こんな時間に」
二人の間に、夜の静けさが流れる。
街灯の光が、作業台の上で揺れていた。
「私も、終わりそうにないので」蓮が近づいてくる。「少し、お手伝いを」
千秋は小さく頷いた。深夜のアトリエで、二人きりの時間が始まる。
「玲奈」蓮が優しく言う。「もう遅いから、先に帰ってください」
玲奈は意味深な表情を浮かべながら、静かに退室した。その背中には、二人を見守る優しさが感じられた。
「この部分ですね」蓮が布地に手を伸ばす。「光の当て方で」
「はい」千秋も布地に触れる。「でも、まだ何か」
二人の指先が、わずかな距離で並ぶ。
街灯の光が、その影を作業台に落としていた。
「風間さん」蓮がゆっくりと言う。「春樹から聞きました」
「え?」
「朝早くから」蓮の声が柔らかくなる。「私のことを案じて」
千秋は息を呑む。
春樹との会話が、蓮の耳に入っていたとは。
「彼は」蓮が続ける。「いつも私のことを、理解してくれている」
その言葉には、親友への深い信頼が込められていた。
「でも」蓮の声が震える。「あなたには、もっと大切な何かを」
深夜のアトリエに、静けさが広がる。
時計の音だけが、二人の心音のように響く。
「篠原様」千秋が布地から顔を上げる。「私も、伝えたいことが」
「はい」
「この技法は」千秋の声に力が込められる。「私たちの、未来を照らすものだと」
蓮の瞳が、かすかに潤む。
「風間さん」
その声には、これまで聞いたことのない感情が込められていた。
二人の間に、深い理解が流れる。
それは言葉以上の、確かな絆。
アトリエの窓から、夜風が入ってくる。
カーテンが、そっと揺れる。
千秋は静かに針を進める。
一針一針に、新しい想いを込めながら。
それは技法への追求であり、
二人の未来への祈りでもあった。
深夜のアトリエで、
確かな何かが、
ゆっくりと形を成していく。
(つづく)




