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第37話:届かぬ想い

「この部分の構造を」千秋は作業台で、新しい試作品を広げていた。「もう一度」


パリまであと三日。アトリエには朝から、切迫した空気が漂っている。窓から差し込む光が、布地に不思議な陰影を作り出していた。


「随分と早いのね」玲奈が心配そうに近づく。「昨夜も遅くまで」


「ええ」千秋は針を持ったまま答える。「でも、まだ何か足りなくて」


その声には、焦りと共に、何か特別な感情が混ざっていた。アメリカ行き短縮の交渉は、この技法の完成にかかっている。


「千秋」玲奈が静かに言う。「無理しすぎじゃ」


その時、アトリエのドアが開く。


「お早うございます」


春樹が入ってきた。表情には、いつもの柔らかさが見えない。


「風間さん」春樹が近づく。「蓮のことで、相談が」


千秋は思わず手を止めた。

朝の光が、春樹の憂いを帯びた横顔を照らしていた。


「昨夜の取締役会で」春樹が続ける。「アメリカの件が」


アトリエに、重い空気が流れる。

蝉の声だけが、夏の存在を主張していた。


「条件付きでの短縮案も」春樹が窓際に立つ。「否決されたそうです」


千秋の手が、布地の上で止まる。


「蓮は」春樹の声が沈む。「一人で全てを抱え込もうとして」


その時、アトリエのドアが再び開く。


「失礼します」


蓮が入ってきた。昨夜の取締役会の疲れが、まだ顔に残っている。それでも、その眼差しには決意が宿っていた。


「風間さん」蓮が一歩近づく。「昨夜のことは」


「聞きました」千秋は静かに答える。「水城さんから」


二人の間に、言いよどむ空気が流れる。


「私が」蓮が続ける。「もっと早く決断していれば」


「違います」


千秋の声が、アトリエに響く。


「むしろ」千秋は布地に手を置く。「今まで、私たちは正しい道を」


蓮の表情が、僅かに和らぐ。


春樹は、そんな二人の様子を見守りながら、胸に重いものを感じていた。


「蓮」春樹が静かに言う。「君は、何を恐れているんだ」


「春樹?」


「以前の君なら」春樹の声に力が込められる。「こんな簡単に諦めなかった」


アトリエに、緊張が走る。


「分かっているはずだ」春樹が続ける。「本当に守りたいものが、何なのか」


蓮の瞳が、揺れる。


「私からも」千秋がゆっくりと立ち上がる。「お願いがあります」


「風間さん」


「この技法は」千秋の声が震える。「まだ、完成していない」


その言葉には、技術以上の、何かが込められていた。


「だから」千秋はまっすぐに蓮を見つめる。「最後まで、一緒に」


アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。

カーテンが、そっと揺れる。


蓮は言葉を失ったように、千秋を見つめていた。

その目には、複雑な感情が交錯している。


「風間さんの針には」蓮がようやく口を開く。「人の心を解きほぐす力がある」


春樹は、静かに微笑んだ。


「では」春樹が立ち上がる。「私は、パリの準備を」


去り際、彼は蓮に意味深な視線を送った。

その目には、親友への叱咤と期待が込められていた。


応接室に残された二人の間に、朝の光が差し込む。


「風間さん」蓮が静かに言う。「私は」


「はい」


「この三日間で」蓮の声に力が戻る。「全てを、賭けたい」


千秋は小さく頷いた。

それは言葉以上の、確かな約束。


作業台の上で、二本の針が光を放っている。

その輝きは、まるで二人の決意を表すよう。


アトリエの中に、新しい希望が満ちていく。

それは、まだ形にならない夢。

けれど、確かに存在する何か。


(つづく)

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