第36話:優しい嘘
「おはようございます」
千秋が作業台に向かおうとした時、思いがけない声が響いた。まだ誰も来ていない早朝のアトリエに、春樹が一人で佇んでいた。
「水城さん」千秋は足を止める。「こんなに早くから」
パリまであと四日。窓から差し込む朝日が、春樹の物思わしげな横顔を照らしている。
「風間さん」春樹の声には、いつもの柔らかさがない。「少し、お時間を」
その真剣な眼差しに、千秋は静かに頷いた。
「実は」春樹が窓際に立ったまま言う。「蓮のことで、心配で」
アトリエに、朝の静けさが広がる。
まだ蝉の声も聞こえない、夜明けの空気。
「昨夜、彼と話をしました」春樹が続ける。「アメリカの件で」
千秋は息を呑む。
先日の提案。パリでの成功を条件に、赴任期間の短縮を目指すという賭け。
「彼は」春樹の声が沈む。「自分を責めているんです」
「責めている?」
「ええ」春樹が千秋の方を向く。「あなたに迷惑をかけていると」
その言葉に、千秋は胸が締め付けられる思いがした。
「そんな」千秋の声が震える。「むしろ、私が」
「いいえ」春樹が静かに遮る。「あなたは、何も間違っていない」
朝の光が、二人の間に長い影を作る。
「風間さん」春樹が真摯な眼差しで言う。「私から、一つお願いが」
「はい」
「蓮の夢を」春樹の声に力が込められる。「守ってあげてください」
千秋は息を呑んだ。
その言葉には、友人としての切実な想いが込められていた。
「水城さんこそ」千秋が静かに言う。「ずっと、篠原様のそばで」
「私は」春樹が微笑む。「ただの友人です」
その「ただの」という言葉に、どこか切ない響きがあった。
「でも、あなたは違う」春樹が続ける。「蓮の心を、動かす力がある」
アトリエに、朝の光が差し込んでくる。
その光が、春樹の決意を照らすよう。
「私には分かります」春樹の目が優しさを帯びる。「彼が、あなたに見出した希望が」
その時、アトリエのドアが開く音がした。
「お早うございます」
蓮が入ってきた。昨日までの疲れは見えず、どこか清々しい表情。
「春樹」蓮が二人を見て驚く。「こんなに早くから」
「ああ」春樹が自然に笑顔を見せる。「パリの最終確認を」
蓮は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
その目には、親友への感謝と、何か言いよどむものが混ざっている。
「では」春樹が立ち上がる。「私は、これで」
去り際、彼は千秋に小さく頷きかけた。
その仕草には、深い信頼が込められていた。
応接室に残された二人の間に、朝の静けさが流れる。
「風間さん」蓮が作業台に近づく。「春樹から、何か」
「はい」千秋は布地に目を落とす。「パリのことを」
それは優しい嘘。
けれど、その嘘には確かな想いが込められていた。
「そうですか」蓮も布地に手を伸ばす。「では、今日も」
二人の指先が、わずかな距離で並ぶ。
朝の光が、その影を作業台に落としていた。
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。
カーテンが、そっと揺れる。
千秋は静かに針を手に取る。
一針一針に、これまでにない想いを込めながら。
それは技法への追求であり、
誰かの夢を守る決意でもあった。
(つづく)




