第35話:遠ざかる背中
「あと四日」千秋は作業台で、朝一番から新しい試作に取り組んでいた。「この効果を、もう少し」
パリ展示会への準備は、着実に進んでいる。窓から差し込む夏の陽射しが、布地に新しい表情を与えていく。
「随分と早いわね」
玲奈が入ってきた。手にはパリからの最新の連絡事項。
「ええ」千秋は針を持ったまま答える。「昨日の夜、ひらめいたことがあって」
その声には、普段とは違う熱が込められていた。昨日の蓮との会話が、彼女の創作意欲を一層刺激したのかもしれない。
「それより」玲奈が心配そうに言う。「これ、見た?」
差し出された書類に目を通すと、千秋の表情が固まる。
アメリカからの新たな要請。
パリ展示会直後からの、即時赴任要請。
「これは」千秋の手が止まる。
その時、アトリエのドアが開く。
「お早うございます」
春樹が入ってきた。その表情には、どこか翳りが見えた。
「風間さん」春樹が近づく。「昨夜の件で、蓮と話し合いまして」
千秋は息を呑む。
朝の光が、春樹の憂いを帯びた横顔を照らしていた。
「アメリカ側が」春樹が窓際に立つ。「譲歩の余地なしと」
アトリエに、重い空気が流れる。
蝉の声だけが、夏の訪れを告げていた。
「蓮は」春樹の声が沈む。「一晩中、何か方法はないかと」
その時、アトリエのドアが再び開く。
「失礼します」
蓮が入ってきた。目の下には疲れの色が見える。それでも、その眼差しには強い意志が宿っていた。
「風間さん」蓮が一歩近づく。「朝早くから、申し訳ない」
「いいえ」千秋は布地から顔を上げる。「私も、アメリカの件を」
二人の間に、言いよどむ空気が流れる。
「実は」蓮が静かに口を開く。「一つ、提案が」
「提案?」
「ええ」蓮の声が力強くなる。「パリ展示会での成功を条件に」
春樹が振り向く。
「まさか」
「アメリカ行きを」蓮が続ける。「半年に短縮できないか、交渉してみたい」
千秋の胸が、大きく跳ねる。
「その間に」蓮の目がまっすぐに千秋を見つめる。「この技法を、完全なものに」
「でも」春樹が心配そうに。「それは大きな賭けだ」
「分かっている」蓮が頷く。「だからこそ、風間さんと共に」
アトリエの窓から、朝の光が差し込む。
その光が、二人の決意を照らしているよう。
「私も」千秋は布地に手を置く。「全力で」
春樹は、そんな二人の姿を見守りながら、複雑な表情を浮かべていた。
「では」春樹が立ち上がる。「私からも、できることを」
去り際、彼は二人に意味深な視線を送った。その目には、友人への祈りと期待が込められていた。
応接室に残された二人の間に、静かな緊張が流れる。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「私の勝手な提案を」
「いいえ」千秋は針を持ち直す。「私も、同じ想いです」
その言葉に、蓮の表情が和らぐ。
「では」蓮も布地に向かう。「これから始まる四日間を」
二人は黙って頷いた。
それは言葉以上の、固い約束。
アトリエの中に、朝の光が満ちていく。
二本の針が、その光を受けて輝いている。
遠いようで近い、パリまでの四日間。
その先にある半年という時間。
そして、まだ見ぬ可能性。
全てが、この針の上に賭けられている。
(つづく)




