第30話:夏の陽射し
「少し休憩を」玲奈の声が、千秋の集中を静かに破る。「もう夕方よ」
アトリエには夕暮れの光が差し込んでいた。パリ展示会まであと九日。千秋は朝から一度も作業台を離れていない。
「あぁ」千秋は初めて外の景色に気づく。「こんな時間」
作業台の上には、幾つもの試作品が並んでいる。一つ一つに新しい発見があり、同時に新たな課題も見えてきた。完成までの道のりは、まだ遠い。
「お茶を入れましょうか」玲奈が心配そうに言う。「少しは休まないと」
その時、アトリエのドアが開く。
「失礼します」
蓮が入ってきた。会議を終えたばかりだろうか、スーツ姿はいつもの凛々しさを保っているものの、表情には疲れが見える。
「篠原様」千秋が立ち上がる。「お疲れ様です」
「風間さんこそ」蓮が作業台に近づく。「まだ続けていたんですか」
二人の間に、夕暮れの光が差し込む。
そこには、言葉にならない心配と感謝が交差していた。
「あの」玲奈が気を利かせて。「お茶を用意してきます」
玲奈が去った後、アトリエには静かな空気が流れる。
「今日の取締役会は?」千秋が恐る恐る尋ねる。
「ええ」蓮が窓際に立つ。「パリ展示会については、ようやく最終承認が」
その声には安堵と共に、何か言いよどむものが混ざっていた。
「それと」蓮が続ける。「アメリカ行きのことも」
千秋の手が、布地の上で止まる。
「一年間の契約で」蓮の声が低くなる。「技術提携の責任者として」
アトリエに、重い空気が流れる。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。
「素晴らしい機会ですね」千秋は精一杯の笑顔を作る。「篠原様の夢が」
「違います」
蓮の声が、静かに響く。
「え?」
「確かに、会社にとっては大きなチャンス」蓮が千秋を見つめる。「でも、私の夢は」
その時、アトリエのドアが開く。
「お待たせしました」
玲奈がお茶を持って戻ってきた。
「あ」玲奈が空気を読んで。「邪魔でしたか」
「いいえ」蓮が姿勢を正す。「ちょうど良かった。少し休憩を」
三人でお茶を飲みながら、自然と会話が和らいでいく。
パリ展示会の準備のこと、若手育成プログラムのこと。
「そういえば」玲奈が言う。「水城さんも、随分と頑張ってくれてますね」
「ええ」蓮が柔らかく微笑む。「昔から、私の無理な夢に付き合ってくれて」
その言葉に、千秋は胸が締め付けられるのを感じた。
蓮の夢を、一番近くで支え続けてきた存在。
「風間さん」蓮が突然、真剣な表情になる。「この技法の完成後も」
「はい」
「私の夢を」蓮の声が震える。「見守っていただけませんか」
アトリエに、静寂が広がる。
その言葉の意味するところを、誰もが察していた。
玲奈は、そっと立ち上がる。
「私は、これで」
去り際、彼女は千秋に小さく頷きかけた。
その目には、深い理解と期待が込められていた。
夕暮れのアトリエに、二人きりの空間が生まれる。
「篠原様」千秋がゆっくりと言う。「私にできることなら」
「できるはずです」蓮の声に力が戻る。「だって、あなたは」
窓の外で、蝉の声が響く。
夏の日が、静かに沈もうとしていた。
千秋は再び針を手に取る。
一針一針に、新しい決意を込めながら。
それは技法の完成への想いであり、
誰かの夢を守る誓いでもあった。
アトリエの中で、確かな絆が紡がれていく。
それはまだ、完成には程遠い。
けれど、二人の心は確実に、
同じ方向を見つめ始めていた。
(つづく)




