第3話:想いの重さ
アトリエの奥庭に面した作業室で、千秋は生地のサンプルを広げていた。応接室での打ち合わせから一時間。窓から差し込む陽射しが、素材それぞれの表情を浮かび上がらせる。シルクはまるで朝霧のように繊細な光沢を放ち、レースは影絵のような陰影を作る。長年の経験で選び抜かれた生地たちは、光を受けて、それぞれが違った表情を見せる。
「このデザインは、予算が倍以上必要になります」
先ほどの蓮の冷たい声が、まだ耳に残っていた。応接室での緊張感に満ちた空気が、今も胸に重くのしかかる。大切なプレゼンテーションのはずが、思わぬ方向に進んでしまった焦りと後悔。そして、さくらの曇った表情。全てが、千秋の心を締め付けていた。
千秋は手元の生地に触れながら、考えを巡らせる。確かに、スケッチしたデザインには最高級の素材と手の込んだ技法が必要だ。伝統的な刺繍は、一針一針に時間がかかる。和の意匠を現代的なシルエットに融合させるのは、素材選びからして難しい。
祖母の声が、ふと耳元に蘇る。
「針を持つ時は、相手の心に寄り添うように」
「布地が何を望んでいるのか、どんな形になりたがっているのか」
「それを感じ取れるようになって、初めて本物の職人になれるの」
十五歳の夏から始まった修行。dawn前からの練習、幾度となく解き直された刺繍、時には涙を流しながらも続けた反復練習。その全てが、今の千秋の技術の礎となっている。
そして——。
「兄様...」
さくらが小さく呟いた声が、今も胸に残っている。先ほどまでの喜びに満ちた表情が曇っていく様子。その落胆した瞳を見た時、千秋の中で何かが動いた。
「私たちの予算でできる範囲で」蓮の言葉は冷静だった。「シンプルなデザインを」
その眼差しには、ビジネスマンとしての判断と、兄としての複雑な想いが混ざっていた。千秋には分かった。これは単なる予算の問題ではない。もっと深い、何か別の想いが隠されている。
千秋は立ち上がり、古い桐箱を取り出した。祖母の形見の技法ノート。表紙の革は長年の使用で艶を帯び、角は擦り切れている。けれど、その中に記された技は、今も色褪せることなく輝いていた。
五年前、祖母は最期の時を迎える直前、このノートを千秋に託した。
「千秋」か細い声で、それでも芯の通った口調で語りかけた。「この中には、代々受け継がれてきた技が詰まっている。でも、ただ受け継ぐだけじゃいけない。時代と共に、新しい命を吹き込んでいくの」
その時は完全には理解できなかった言葉が、今、胸に突き刺さる。
千秋はノートを開き、応接室に向かった。
「篠原様」
部屋に入ると、蓮とさくらはまだ残っていた。
「このデザインを」千秋は静かに、しかし芯の通った声で言った。「ご提示した予算内で実現させていただきます」
「何?」
蓮の表情が動く。完璧に計算された経営者の仮面に、小さな亀裂が入ったように見えた。
「不可能です」
「いいえ」千秋はノートを開きながら続けた。「素材の選定から、技法の工夫まで、確かな方法があります」
千秋は、祖母から教わった裏技とも言える技法を説明していく。布地の裏面から施す特殊な刺繍。光の加減で模様が浮かび上がる織りの工夫。伝統的な技を現代的にアレンジすることで、コストを抑えながらも美しさを保つ方法。
「この胸元の刺繍。通常なら一針ずつ丁寧に刺していく技法ですが」彼女の指がページの図案を示す。「これを応用することで、同じ効果を生み出せます」
「本当に?」さくらの声が希望に震えた。
専門的な説明が続く中、蓮の表情が少しずつ変化していくのが分かった。経営者としての冷静な判断と、何かに心を動かされる感情が、その瞳の中で交錯している。時折、千秋の手元を見る視線には、かつて見たことのない色が宿っていた。
「風間さん」
話が一段落すると、蓮が口を開いた。その声には、先ほどまでの冷たさが影を潜めていた。
「なぜ、そこまで?」
その問いに、千秋は迷わず答えた。
「さくらさんの笑顔のためです」
蓮の瞳が、かすかに揺れた。
「それに」千秋は続ける。「これは私たちアトリエの挑戦でもあります。伝統と革新を紡ぎ合わせ、最高の技術でお客様の夢を叶える。それが、私たちの誇りですから」
千秋の指先が、祖母のノートを優しく撫でる。その仕草に、代々受け継がれてきた技への敬意と、新しい時代への決意が込められていた。
静寂が流れる。
庭の木々が風に揺れ、木漏れ日が作業台の上で優しい影を作る。
やがて、蓮が大きく息を吐いた。
「分かりました」彼は千秋を見つめた。その目には、新たな光が宿っていた。「あなたを、信じてみましょう」
「兄様!」さくらが飛び上がらんばかりに喜ぶ。
「ですが」蓮は付け加えた。「一つ条件があります」
「はい」
「私も、製作過程に関わらせてください」
千秋は驚いて目を見開いた。
「毎週の進捗確認、素材の選定、仮縫い...全てのプロセスを、私も確認させていただきたい」
普通、依頼者がそこまで深く関わることは稀だった。ましてや、忙しいはずの企業経営者が。けれど、その申し出には何か特別な想いが込められているように感じた。
「お忙しいのに」千秋は恐る恐る言った。「それほどの時間を...」
「私には」蓮は真剣な眼差しで答えた。「妹の幸せのためなら、どんな時間でも作る義務があります」
その言葉に込められた決意の強さに、千秋は息を呑んだ。時として厳しい態度の裏に、深い愛情を秘めている人なのだと、彼女は確信した。
「篠原様...」
「駄目ですか?」
その眼差しには、妹を想う強い意志が宿っていた。そして、どこか懐かしいような、布地を見る時の特別な輝きも。千秋はそこに、かつての自分を重ねていた。伝統を受け継ぎ、なおかつ新しい道を切り開こうとする者の、孤独と覚悟。
千秋は小さく頷いた。
「承知いたしました」
その瞬間、千秋の心の中で、何かが大きく動いた。まるで、運命の針が、新しい模様を描き始めたように。
「よかった」さくらは嬉しそうに二人を見つめた。「これで、きっと素敵なドレスができますね」
「ええ」千秋は微笑んだ。「私たちの技術の全てを、このドレスに込めましょう」
蓮の表情が、僅かに柔らかくなる。そして千秋は、これから始まる共同作業に、不思議な期待を感じていた。それは、まるで新しい布地に最初の一針を落とすような、そんな高揚感に似ていた。
窓の外では、初夏の陽射しが眩しく輝いている。新しい物語は、こうして静かに、しかし確かな歩みを始めたのだった。
(つづく)