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第29話:交差する糸

「パリ展示会まで、あと十日」


千秋はアトリエで、新しい試作品に向き合っていた。朝早く、まだ誰も来ていない時間。窓から差し込む光が、作業台の上の布地を優しく照らしている。


「ずいぶん早いのね」


振り返ると、玲奈が心配そうな表情で立っていた。


「ええ」千秋は針を持ったまま答える。「あともう少しで」


その声には、どこか切迫したものが混ざっていた。アメリカ行きの話を聞いてから、彼女の研究への没頭は一層深まっていた。


「千秋」玲奈が作業台に近づく。「無理しすぎじゃない?」


「大丈夫」千秋は微笑みを見せる。「今は、これに集中したいの」


その時、アトリエのドアが開く。


「お早うございます」


蓮が入ってきた。最近は毎朝早くから顔を出すようになっていた。彼もまた、残された時間を大切にしたいという想いがあるのだろう。


「風間さん」蓮が作業台に近づく。「昨日の続きを」


「はい」千秋は新しい試作を示す。「光の加減で、このように」


二人の視線が、布地の上で交差する。

そこには、まだ言葉にならない何かが、確かに存在していた。


「この部分の構造が」蓮が布地に手を伸ばす。「祖母の技法を思わせる」


「はい」千秋も布地に触れる。「でも、現代的なアレンジを加えて」


二人の指先が、わずかな距離で並ぶ。

朝の光が、その影を作業台に落としていた。


「風間さん」蓮がゆっくりと言う。「アメリカの件は」


「研究に集中しましょう」千秋は静かに遮った。「今は、これが最優先」


その声には、強さと儚さが混ざっている。


「失礼します」


春樹が入ってきた。手には新しい企画書。


「おや」春樹が二人を見て微笑む。「今日も早いんだね」


「春樹」蓮が少し身を引く。「パリの準備は?」


「順調だよ」春樹が頷く。「むしろ、君たちの研究の方が気になって」


三人の間に、複雑な空気が流れる。

それは仕事以上の、何かを感じさせた。


「それと」春樹が新しい書類を取り出す。「アメリカからの正式なオファーが」


千秋の手が、布地の上で止まる。


「一年間の契約で」春樹が続ける。「パリ展示会の直後から」


アトリエに、重い沈黙が落ちる。

時計の音だけが、静かに響いていた。


「春樹」蓮が声を潜める。「それは後で」


「いいえ」千秋が顔を上げる。「私も知っておくべきことです」


その言葉には、強い意志が込められていた。


「風間さん」蓮が心配そうに。


「篠原様の夢を」千秋は真摯に言う。「精一杯、応援させてください」


蓮の目に、複雑な感情が浮かぶ。


春樹は、そんな二人の様子を見守りながら、胸に重いものを感じていた。


「では」春樹が立ち上がる。「詳細は、また」


去り際、彼は二人に意味深な視線を送った。

その目には、友人への祈りと、何か切ない決意が浮かんでいた。


応接室に残された二人の間に、朝の光が差し込む。


「風間さん」蓮がようやく口を開く。「私は」


「この技法の完成が」千秋は針を持ち直す。「今は、それだけを」


一針一針に、これまでにない想いを込めながら。

それは未来への願いであり、今を大切にしたい気持ち。


「分かりました」蓮も布地に向かう。「一緒に、完成させましょう」


アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。

カーテンが、そっと揺れる。


残された時間は、わずか十日。

その中で、二人は何を見つけ、何を紡いでいくのか。


朝の光が作業台を照らし、

二本の針が静かに輝きを放っていた。


(つづく)

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