第28話:明日への糸
「この光の当て方で」千秋は作業台の布地を指さす。「影の濃淡が変化して」
真夏の午後、アトリエには研究に没頭する二人の姿があった。展示会の日程変更から一週間。蓮は毎日のように足を運び、技法の完成に向けて千秋と意見を交わしていた。
「なるほど」蓮が真剣な眼差しで布地を見つめる。「祖母の技法を応用して」
その横顔には、経営者としての威厳は影を潜め、純粋な研究者としての輝きが宿っていた。
「篠原様の研究ノートに」千秋が続ける。「似たような記述が」
「ええ」蓮の声が柔らかくなる。「あの頃、必死で追い求めていた可能性」
アトリエに、蝉の声が響く。
陽射しが作業台の上で、布地に新しい表情を与えていく。
「でも」蓮がふと言葉を濁す。「これ以上、お時間を取らせては」
「違います」
千秋の声が、静かに、しかし力強く響いた。
「この研究は」彼女は真摯に言う。「篠原様との大切な時間です」
蓮の目が、かすかに揺れる。
その時、アトリエのドアが開く。
「失礼します」
春樹が入ってきた。手にはパリからの新しい連絡事項。
「相変わらずだね」春樹が二人を見て微笑む。「まるで学生時代のよう」
「春樹」蓮が少し照れたように言う。「また余計な」
「いいじゃないか」春樹の声には温かみがある。「久しぶりに、本来の君を見られて」
その言葉に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。
「それより」春樹が新しい資料を広げる。「パリからの評価が届いています」
差し出された書類には、千秋と蓮の共同研究への期待が記されていた。伝統と革新の融合。それは、世界が求めている新しい価値だという。
「これは」千秋が息を呑む。
「風間さんと蓮の」春樹が優しく言う。「二人だからこその成果です」
蓮の表情が、僅かに柔らかくなる。
「春樹」蓮がゆっくりと口を開く。「ありがとう」
「何が?」
「ずっと」蓮の声が震える。「私の夢を、理解してくれて」
アトリエに、静寂が流れる。
その言葉の重みが、三人の心に沁みていく。
「それより」春樹が話題を変える。「取締役会の報告を」
スケジュール変更に伴う新たな提案。予算の見直し。そして、若手育成プログラムの具体案。全てが、着実に形を成し始めていた。
「この調子なら」春樹が満足げに頷く。「期限内に」
「ええ」蓮も同意する。「風間さんのおかげで」
千秋は黙って針を持ち直した。
まだやるべきことが、たくさんある。
「では」春樹が立ち上がる。「私は、次の会議が」
去り際、彼は蓮に意味深な視線を送った。
親友だからこそ分かる、何かがあったのだろう。
応接室に残された二人の間に、夏の陽射しが差し込む。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「実は」
「はい」
「パリの後に」蓮の声が低くなる。「新しいプロジェクトの話が」
千秋の手が、布地の上で止まる。
「アメリカの企業から」蓮が続ける。「一年間の」
言葉が途切れる。
その先にある現実が、二人の間に重くのしかかる。
「そうですか」千秋は精一杯の笑顔を作る。「素晴らしい機会ですね」
けれど、その声には僅かな揺らぎが混ざっていた。
「その前に」蓮が真摯に言う。「この技法を、完成させたい」
「篠原様」
「この時間は」蓮の目がまっすぐに千秋を見つめる。「私にとって、特別だから」
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。
カーテンが、そっと揺れる。
千秋は静かに針を進める。
一針一針に、これまでにない想いを込めながら。
それは未来への祈りであり、
今この時を大切にしたいという願い。
二本の針が、午後の光を受けて輝く。
その光は、まだ見ぬ可能性を照らすよう。
(つづく)




