第25話:届かぬ想い
「一週間の入院を終えて」春樹は応接室で説明していた。「今日から職場復帰です」
千秋は静かに頷いた。窓から差し込む朝の光が、作業台の上の布地を照らしている。この一週間、彼女はプロジェクトの進行と技法の研究を必死で進めてきた。
「ただ」春樹の声が慎重になる。「完全復帰ではなく、当面は短時間勤務で」
「そうですか」千秋は安堵の色を見せる。「それなら」
その時、アトリエのドアが開く。
「お早うございます」
蓮が入ってきた。一週間ぶりのスーツ姿。少し痩せた気がするものの、表情には落ち着きが戻っていた。
「篠原様」千秋が立ち上がる。「お体の方は」
「ご心配をおかけして」蓮は柔らかく微笑む。「もう大丈夫です」
三人の間に、穏やかな空気が流れる。
蝉の声が、夏の訪れを告げていた。
「それより」蓮が作業台に近づく。「研究の方は」
「はい」千秋は新しい試作品を示す。「入院中のメモを参考に」
蓮は布地に手を伸ばした。その指先には、研究者としての鋭い観察眼が宿っている。
「これは」蓮の目が輝く。「私の意図を、さらに発展させて」
「風間さんは」春樹が意味深に言う。「君の研究を理解してくれる、唯一の人だからね」
その言葉に、蓮の表情が僅かに揺れる。
「この部分」千秋が刺繍の一角を指さす。「篠原様のアイデアを基に、新しい解釈を」
蓮は黙って頷いた。その目には、純粋な感動が浮かんでいる。
「風間さんの針には」蓮がゆっくりと言う。「不思議な力がある」
「え?」
「伝統を守りながら」蓮の声が温かみを帯びる。「新しい命を吹き込む」
その言葉に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。
「それは」千秋が布地に目を落とす。「篠原様の研究があってこそ」
春樹は、そんな二人のやり取りを見守りながら、複雑な表情を浮かべていた。
「では」春樹が立ち上がる。「私は、取締役会の準備が」
去り際、彼は蓮に小さく頷きかけた。その仕草には、親友としての深い理解が込められていた。
応接室に残された二人の間に、朝の光が差し込む。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「入院中は」
「いいえ」千秋は首を振る。「私も、多くのことを学ばせていただいて」
「学んだ、というより」蓮の声が柔らかくなる。「教えてくれたんです」
「え?」
「仕事への向き合い方」蓮が窓の外を見つめる。「そして、本当の自分らしさを」
アトリエの外では、蝉の声が響いていた。
その音が、二人の心音のように聞こえる。
「私も」千秋が静かに言う。「篠原様との研究で、新しい発見が」
その時、蓮の携帯が鳴った。
また、仕事の呼び出し。
「申し訳ありません」蓮が立ち上がる。「これから会議が」
「お体に気を付けて」千秋は優しく言った。「無理は」
蓮は一瞬立ち止まり、千秋を見つめた。
その目には、言いよどむ何かが浮かんでいる。
「また」蓮がようやく言葉を絞り出す。「この技法のことで」
「はい」千秋は微笑んだ。「いつでも」
扉が閉まった後、千秋は作業台に向かった。
針を持つ手に、新しい決意が宿る。
これは単なる研究ではない。
誰かの夢を守るための、確かな一歩。
朝の光が作業台を照らし、
針が織りなす模様を浮かび上がらせる。
アトリエの中に、静かな決意が満ちていた。
それは、まだ言葉にならない想いを、
布地に託すように。
(つづく)




