表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/76

第23話:消えゆく針音

「このレイアウトで」千秋は作業台で新しい企画書を広げながら説明を続けた。「若手育成プログラムの第一段階を」


夏の午後、アトリエには蒸し暑い空気が漂っている。エアコンの音だけが、静かな空間に響いていた。


「なるほど」春樹が資料に目を通す。「伝統技法の基礎から入るんですね」


「はい」千秋は頷く。「まずは技術の本質を理解してもらって」


その時、玲奈が慌ただしく入ってきた。


「千秋」その声には緊張が混ざっている。「大変よ」


「どうしたの?」


「篠原様が」玲奈が息を整える。「取締役会で倒れたって」


千秋の手が、布地の上で止まる。

針が、シルクに突き刺さったまま。


「蓮が?」春樹が立ち上がる。「どこに」


「京都中央病院です」玲奈が答える。「さくらさんから連絡が」


春樹は千秋の方を見た。その目には、何か特別な意味が込められていた。


「風間さん」春樹が静かに言う。「一緒に行きませんか」


千秋は一瞬躊躇った。

けれど、その躊躇いは長くは続かなかった。


「行きます」彼女は決意を込めて答えた。


タクシーの中で、春樹は静かに携帯を操作していた。病院からの続報を待っているのだろう。窓の外では、夏の陽射しが眩しく照りつける。


「最近の蓮は」春樹がふと口を開く。「無理を重ねすぎていた」


千秋は黙って聞いている。


「取締役会での反対意見」春樹が続ける。「パリ展示会の準備。そして、このプロジェクト」


一つ一つの言葉が、重たい現実として響く。


「でも」春樹が千秋を見つめる。「それ以上に、彼を追い詰めていたのは」


その時、タクシーが病院に到着した。


病院の廊下には、既に数人のスーツ姿の男性たちが待機していた。篠原グループの幹部たちだろう。千秋たちを見るなり、深々と頭を下げる。


「さくらさん」春樹が声をかける。「容態は?」


さくらは心配そうな表情で近づいてきた。いつもの着物姿ではなく、急いで来たのだろう、普段着のままだ。


「過労と脱水症状だそうです」さくらの声が震える。「でも、意識ははっきりしていて」


千秋は、胸が締め付けられる思いがした。


「兄様」さくらが続ける。「最近、本当に頑張りすぎで」


その時、診察室のドアが開いた。


「ご家族の方は?」医師が声をかける。


「私が」さくらが一歩前に出る。


「休養が必要ですね」医師が説明を始める。「少なくとも一週間は」


蓮の声が、診察室から聞こえてきた。

「一週間も」


「篠原さん」医師の声が厳しくなる。「このままでは、もっと深刻な事態に」


廊下に、重い空気が流れる。


「風間さん」春樹が静かに言う。「少し、蓮に会ってきませんか」


「私が?」


「ええ」春樹の目が優しさを帯びる。「きっと、あなたの言葉なら」


千秋は恐る恐る診察室に向かった。

ノックの音が、妙に大きく響く。


「どうぞ」


蓮の声には、疲れが滲んでいた。


「失礼します」


ドアを開けると、そこには普段とは違う蓮の姿があった。スーツ姿ではなく病衣を着た彼は、どこか儚げに見えた。


「風間さん」蓮が驚いたように目を見開く。「なぜ」


「プロジェクトの打ち合わせ中に」千秋は静かに説明する。「水城さんと一緒に」


蓮は俯いた。

「申し訳ない。こんな姿を」


「違います」千秋の声が、診察室に響く。「むしろ、私たちが気づくべきでした」


その「私たち」という言葉に、特別な重みがあった。


「風間さん」


「プロジェクトのことは」千秋は真摯に言う。「私が責任を持って。ですから」


「でも」


「お願いです」千秋は一歩近づく。「少し、休んでください」


その言葉には、単なる仕事上の心配を超えた、何かが込められていた。


蓮の表情が、僅かに和らぐ。


「分かりました」彼はようやく頷いた。「少しだけ」


その時、春樹がそっとドアを開けた。


「話は聞こえていたよ」春樹が微笑む。「やっと素直になったか」


「春樹」蓮が照れたように言う。「余計な」


「いいんだ」春樹の声が温かい。「たまには、弱音を吐いても」


診察室に、不思議な空気が流れる。

三人の間で、何かが確実に変わり始めていた。


夕暮れの光が、窓から差し込んでくる。

その光が、新しい絆の始まりを静かに照らしていた。


帰り道、千秋は空を見上げた。

夏の夕空には、まだ日が残っている。


「ありがとう」春樹が並んで歩きながら言った。「風間さんの言葉が、彼に届いた」


千秋は小さく首を振った。

「私は、ただ」


「違います」春樹が優しく遮る。「あなたにしか、できなかったこと」


アトリエに戻ると、玲奈が心配そうに待っていた。


「大丈夫だった?」


「ええ」千秋は作業台に向かう。「でも、プロジェクトは私たちで」


その「私たち」という言葉に、新しい決意が込められていた。


千秋は静かに針を手に取る。

今は、この針に全てを込めるしか。

仕事への誇りと、誰かを想う気持ちを。


夕暮れのアトリエに、

確かな決意が満ちていく。


それは「誰か」を守るための、

新しい覚悟の色。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ