第23話:消えゆく針音
「このレイアウトで」千秋は作業台で新しい企画書を広げながら説明を続けた。「若手育成プログラムの第一段階を」
夏の午後、アトリエには蒸し暑い空気が漂っている。エアコンの音だけが、静かな空間に響いていた。
「なるほど」春樹が資料に目を通す。「伝統技法の基礎から入るんですね」
「はい」千秋は頷く。「まずは技術の本質を理解してもらって」
その時、玲奈が慌ただしく入ってきた。
「千秋」その声には緊張が混ざっている。「大変よ」
「どうしたの?」
「篠原様が」玲奈が息を整える。「取締役会で倒れたって」
千秋の手が、布地の上で止まる。
針が、シルクに突き刺さったまま。
「蓮が?」春樹が立ち上がる。「どこに」
「京都中央病院です」玲奈が答える。「さくらさんから連絡が」
春樹は千秋の方を見た。その目には、何か特別な意味が込められていた。
「風間さん」春樹が静かに言う。「一緒に行きませんか」
千秋は一瞬躊躇った。
けれど、その躊躇いは長くは続かなかった。
「行きます」彼女は決意を込めて答えた。
タクシーの中で、春樹は静かに携帯を操作していた。病院からの続報を待っているのだろう。窓の外では、夏の陽射しが眩しく照りつける。
「最近の蓮は」春樹がふと口を開く。「無理を重ねすぎていた」
千秋は黙って聞いている。
「取締役会での反対意見」春樹が続ける。「パリ展示会の準備。そして、このプロジェクト」
一つ一つの言葉が、重たい現実として響く。
「でも」春樹が千秋を見つめる。「それ以上に、彼を追い詰めていたのは」
その時、タクシーが病院に到着した。
病院の廊下には、既に数人のスーツ姿の男性たちが待機していた。篠原グループの幹部たちだろう。千秋たちを見るなり、深々と頭を下げる。
「さくらさん」春樹が声をかける。「容態は?」
さくらは心配そうな表情で近づいてきた。いつもの着物姿ではなく、急いで来たのだろう、普段着のままだ。
「過労と脱水症状だそうです」さくらの声が震える。「でも、意識ははっきりしていて」
千秋は、胸が締め付けられる思いがした。
「兄様」さくらが続ける。「最近、本当に頑張りすぎで」
その時、診察室のドアが開いた。
「ご家族の方は?」医師が声をかける。
「私が」さくらが一歩前に出る。
「休養が必要ですね」医師が説明を始める。「少なくとも一週間は」
蓮の声が、診察室から聞こえてきた。
「一週間も」
「篠原さん」医師の声が厳しくなる。「このままでは、もっと深刻な事態に」
廊下に、重い空気が流れる。
「風間さん」春樹が静かに言う。「少し、蓮に会ってきませんか」
「私が?」
「ええ」春樹の目が優しさを帯びる。「きっと、あなたの言葉なら」
千秋は恐る恐る診察室に向かった。
ノックの音が、妙に大きく響く。
「どうぞ」
蓮の声には、疲れが滲んでいた。
「失礼します」
ドアを開けると、そこには普段とは違う蓮の姿があった。スーツ姿ではなく病衣を着た彼は、どこか儚げに見えた。
「風間さん」蓮が驚いたように目を見開く。「なぜ」
「プロジェクトの打ち合わせ中に」千秋は静かに説明する。「水城さんと一緒に」
蓮は俯いた。
「申し訳ない。こんな姿を」
「違います」千秋の声が、診察室に響く。「むしろ、私たちが気づくべきでした」
その「私たち」という言葉に、特別な重みがあった。
「風間さん」
「プロジェクトのことは」千秋は真摯に言う。「私が責任を持って。ですから」
「でも」
「お願いです」千秋は一歩近づく。「少し、休んでください」
その言葉には、単なる仕事上の心配を超えた、何かが込められていた。
蓮の表情が、僅かに和らぐ。
「分かりました」彼はようやく頷いた。「少しだけ」
その時、春樹がそっとドアを開けた。
「話は聞こえていたよ」春樹が微笑む。「やっと素直になったか」
「春樹」蓮が照れたように言う。「余計な」
「いいんだ」春樹の声が温かい。「たまには、弱音を吐いても」
診察室に、不思議な空気が流れる。
三人の間で、何かが確実に変わり始めていた。
夕暮れの光が、窓から差し込んでくる。
その光が、新しい絆の始まりを静かに照らしていた。
帰り道、千秋は空を見上げた。
夏の夕空には、まだ日が残っている。
「ありがとう」春樹が並んで歩きながら言った。「風間さんの言葉が、彼に届いた」
千秋は小さく首を振った。
「私は、ただ」
「違います」春樹が優しく遮る。「あなたにしか、できなかったこと」
アトリエに戻ると、玲奈が心配そうに待っていた。
「大丈夫だった?」
「ええ」千秋は作業台に向かう。「でも、プロジェクトは私たちで」
その「私たち」という言葉に、新しい決意が込められていた。
千秋は静かに針を手に取る。
今は、この針に全てを込めるしか。
仕事への誇りと、誰かを想う気持ちを。
夕暮れのアトリエに、
確かな決意が満ちていく。
それは「誰か」を守るための、
新しい覚悟の色。
(つづく)




