第22話:重なる影
明けましておめでとうございます。
本日から更新再開します。
「今回のプロジェクトですが」春樹は企画書を広げながら説明を続けた。「伝統技法を受け継ぐ若手の育成に焦点を」
朝一番のアトリエ。応接室のテーブルには、三人分のコーヒーが用意されている。蒸し暑い夏の朝だが、冷房の効いた室内は快適な温度を保っていた。
「具体的には」春樹が続ける。「風間さんの新しい技法を基に、研修プログラムを」
千秋は真剣な面持ちで資料に目を通す。プロジェクトの概要、研修内容、そして予算案。全てが緻密に計画されている。
「風間さんには」蓮が静かに口を開く。「主任講師として」
その言葉に、千秋は思わず顔を上げた。
「私が、講師を?」
「ええ」蓮の目に確かな信頼が宿る。「あなたの技術と、想いを」
「でも」千秋が躊躇いを見せる。「まだ技法も完成していないのに」
「それでいいんです」春樹が優しく微笑む。「完成に向かう過程も、若手にとっては貴重な学びになる」
アトリエの窓から、朝の光が差し込んでくる。三人の影が、床に重なっていた。
「それと」春樹がタブレットを操作する。「パリの展示会場が決まりました」
スクリーンに映し出されたのは、パリの由緒ある美術館。その優雅な建築様式と、現代的な展示空間の調和が、まるで彼らのプロジェクトを象徴しているかのよう。
「ここで」春樹が続ける。「伝統と革新の融合を、世界に」
その言葉に、蓮の表情が僅かに緊張する。
「取締役会の説得は」蓮が言いかける。
「私に任せて」春樹が遮る。「君は風間さんと、技法の完成に」
その時、蓮の携帯が鳴った。緊急の会議の知らせ。
「申し訳ありません」蓮が立ち上がる。「この後の打ち合わせは」
「大丈夫です」千秋は微笑みを返す。「春樹さんと、詳細を詰めていきます」
蓮は去り際、一瞬だけ千秋と目が合った。その視線には、何か言いたげな色が浮かんでいる。
扉が閉まると、春樹が静かに千秋の方を向いた。
「風間さん」その声には、これまでにない真剣さがあった。「実は、お話ししたいことが」
「蓮のことです」春樹が窓際に立つ。「彼は、一人で全てを背負いすぎている」
千秋は黙って頷いた。蓮の疲れた背中を、彼女も見ていた。
「取締役会の反対」春樹が続ける。「海外展開への不安。そして、家族の期待」
朝の光が、春樹の物思わしげな横顔を照らす。
「でも」春樹が千秋を見つめる。「最近の彼は、少し変わってきた」
「変わった?」
「ええ」春樹の声が柔らかくなる。「風間さんと一緒に研究を始めてから」
その言葉に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。
「私は」千秋が言葉を探す。「ただ、技法の完成を」
「違います」春樹が静かに遮る。「あなたの針には、人の心を解きほぐす力がある」
アトリエに、蝉の声が響き始める。
朝の静けさが、二人の会話を包み込んでいた。
「私には分かります」春樹が続ける。「蓮が、あなたに何を見ているのか」
「水城さん?」
「布地への純粋な想い」春樹の目が遠くを見つめる。「それは、彼が失いかけていたもの」
千秋は息を呑んだ。
「だから」春樹が真摯に言う。「この技法の完成を、二人の手で」
その「二人」という言葉には、特別な意味が込められているようだった。
「私にできるのでしょうか」千秋の声が震える。
「できます」春樹が力強く答える。「むしろ、あなたにしかできない」
その時、アトリエのドアが開く音がした。
「鳴海さん」春樹が微笑む。「いつの間に」
「ごめんなさい」玲奈が申し訳なさそうに。「打ち合わせの時間が」
「いえ」春樹が立ち上がる。「ちょうど良いタイミングです」
去り際、春樹は千秋に小さく頷きかけた。
その目には、深い信頼と期待が込められていた。
アトリエに残された千秋は、作業台に向かった。
手元には、二本の針が静かに光を放っている。
「千秋」玲奈が近づいてくる。「水城さんと、どんな話を?」
「プロジェクトのことよ」千秋は布地に目を落とす。「それだけ」
けれど、その声には僅かな揺らぎがあった。
朝の光が作業台を照らし、針が織りなす模様を浮かび上がらせる。その一針一針に、これまでにない想いが込められているように見えた。
外では、夏の日差しが強さを増していく。
アトリエの中で、新しい物語が静かに紡がれ始めていた。
作業台の上の二本の針は、
まるで縁を結ぶ赤い糸のように、
光を放っていた。
(つづく)




